千五百の想いは靄をも抱く


(不破視点)


最近、三郎の機嫌が悪い。

理由は分かってるから、みんなもなるべくそこには触れないようにしている。それは棗さんのことで、学園長の思いつきのことで、この前発表された結果のことで、

…五年は組の名神黒彦さんのこと、だったりする。

三郎は一年の時から何かと名神黒彦という人間を否定してきた。理由は聞いても“気に入らない”の一点張りで、きっかけだとかは何も教えてくれない。

当時…一、二年生の頃の名神さんはとにかく、不安定だった。いつもぶつぶつと何かを呟いていて、かと思えば急に人が変わったような振る舞いをする。僕は遠目にみたことがあるくらいだったけど、八はそれを目の当たりしてしまったらしい。



それは二年生の時の委員会活動中のこと。八は今と同じ生物委員で、柵の中で忍犬達に餌をやっていた。名神さんもやっぱり今と同じ用具委員で、そこの柵の修理に来ていた。その頃はすでに名神さんには“気違いの黒彦”という呼び名がつけられていたから、八は内心苛々していたらしい。なんであんな奴がうちに、と。

最初は四年生の先輩と大人しく釘を打っていた。とん、かん、とん、かん。規則的な音が続く。だけど不意に、それが途切れた。八は終わったのかな、と思ってそこで腰を上げたんだって。早く忍犬達を散歩に行かせたかったし、何より名神さんがすぐ側にいるということが、嫌だったらしい。

忍犬達に繋いだ紐は持ったままで柵に近づく。先輩の姿はなかった。仕方なく八は名神さんに終わったのかとたずねようとした。だけど、様子が可笑しかった。


「……は、花が、好きでした」
「は…?」
「いや、違う。……は鼻が良すぎたから、花の匂いはきついと、」
「お、まえ、何、言って」
「母は、花の、中で、紅い、花の、中で、」


そして次の瞬間、名神さんは喉が潰れたような叫び声を上げた。それは人の声と言うより、獣の慟哭のような泣き声だった。八は驚いた拍子に忍犬達を繋ぎ止める綱を離してしまった。元々気性の荒い犬達だったから、そのまま名神さんを噛み殺してしまってもおかしくないんじゃないかと、八は思ったらしい。…でも、そうはならなかった。

忍犬達は噛みつくでも吠え立てるでもなく、名神さんの叫び声に同調するように、悲しい哀しい声で鳴いたんだって。すぐに騒ぎを聞きつけた四年生の先輩が、声を枯らした名神さんを抱き締めて、必死に必死に名前を呼んでたんだって。



そんなことがあって以来、八は今でも名神さんのことを“恐い”と言っている。

…ああ、噂をすればなんとやら。


「チッ。忌々しいな」
「三郎、せめて殺気は隠して」
「見てみろ雷蔵。あの女も気づいたぞ」
「え?」


顎でしゃくるように差された先にはぼんやりとろ組の教室を見上げる名神さん。と、射殺さんばかりの勢いでこちらを睨む棗さんの姿があった。正直、驚いた。まさか睨まれるなんて。


「はっ!いったいどんな手であの女を垂らし込んだんだか!」


三郎の苛々が目に見えて嵩を増した。これはもう僕だけじゃ手に負えない。八に助けを頼もうと思って振り返ったけど、八の姿はもうどこにもなかった。…僕にだけ押しつけて逃げようだなんて、いい度胸だね。


そうだ、ひとつだけ言っておくけど、三郎がここまで人を嫌うのって名神さんだけなんだよね。だって三郎の中に“嫌い”という感情は基本的にないから。気に入るか、興味が湧かないか。

そのどちらにも当てはまらないのは良くも悪くも、名神さんだけなんだ。



千五百:ちいお
数がきわめて多いこと。無数。




千五百の想いは靄をも抱く


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色変わりて