無垢な赤子見せたる白昼夢


(平視点)


最近、同室の喜八郎の様子がおかしい。

元々どこかずれた質ではあったので、この場合のおかしいは普段と様子が違うという意味だ。今日も今日とて、尋常ではない量の穴をそこら中に掘っている。


「喜八郎!!いい加減落とし穴を掘るのをやめろ…とおおお!?」
「落とし穴じゃない。トシ子ちゃんとトシ男くんのつがい」
「ぺっぺっ!…私に向かって土を飛ばすな!!あと名前なんぞつけるな!」
「輪子にうんこって書いてやる」
「それだけはやめろ…!!」
「どーせ一文字しか変わらないでしょ」


ああ言えばこう言う!本当にお前は屁理屈だけは一人前だな!

こうなったらいっそ七松先輩でも落としてくれないかと思わなくもないが、その先を考えるのがなんとなく恐ろしくなったので頭を振った。いかん。あの人はどうにも人間離れし過ぎている。

ああ、話が逸れてしまった。…喜八郎はこのところ、眉間に皺を寄せていることが多かった。たまに励ますように棗さんに肩を叩かれているところも見かけた。

私が察するに、こいつは拗ねている。本人にその自覚があるのかは分からないが、これだけ落とし穴とその被害を生産し続ければ必ず誰かが止めに来る。これは過去にもあったことだ。間違いない。


「…名神先輩か?」


土を削る音に消されないよう、穴の側に屈んで問いかける。返事はなかったが、喜八郎の手が止まった。


「私はあの人をよく知らないが、前はもっと苦しそうな顔をしていたと記憶している」
「…笑った顔、みんな知らなかったのに」
「喜八郎…?」
「気づくのが遅いよね」


繋がらない会話。喜八郎は自己完結してしまったのか、溜め息をひとつ吐くと穴から這い出て来た。泥のついた手の甲で汗を拭ったせいで頬が土色に汚れている。

汚れているぞ、と指摘すれば喜八郎はなぜか“わざと”と答えた。私は意味が分からず首を捻る。穴の縁に腰掛けてぶらぶらと足を揺らす喜八郎の顔は、どことなくすっきりしたようにも見えるが…。


「喜八郎…!」


そうやって会話もなく座り込んですぐ、喜八郎の名前を呼ぶ切羽詰まったような声が聞こえた。普段はあまり聞かない声のため、一瞬誰の声か分からなかった。それに何より、視線をそちらに向けると同時に姿が消えてしまったのだ。


「…って、落とし穴か!」
「だーいせーいこー」
「大成功じゃない!これ以上被害を増やすな!…ああ、大丈夫か!?一人で出れないようなら私が手を貸してやらんこともないが…」
「ははは…お恥ずかしい…。あると分かっていたのに、足を止められませんでした…」
「なっ、」


穴の中にいたのは名神先輩だった。陽に焼けて傷んだ髪に土が乗り、それを払い落として立ち上がる。身の丈ほどの深さの穴に苦無を突き立て、側面を蹴って外へと飛び出してきた。

一歩、二歩。後ずさりした私に向けられたのは、哀しい笑み。


「すみません…驚かせてしまいましたね」
「あ、いえ…」


私はどうにも、この人が、この人の目が、苦手だった。どこか浮世離れした雰囲気は件の噂からくる先入観なのか。あの喜八郎が懐くくらいなのだから変人で…悪い人ではないのだろうと、思うのだが。

それでも私は、この人の目を見ることができない。


「黒彦先輩」


喜八郎が名神先輩の名前を呼ぶ。

私を追い越すなり、なぜか手に持った踏鋤を振りかぶった。一瞬呆気に取られてしまったが、口からは慣れたように叱りつける声が出る。

名神先輩が慌てて体を捻ると、その片足は穴の中へと落ちた。喜八郎め、一体どれだけ掘ったというのだ…。いっそ呆れを通り越して感心すらしてしまう。


「き、喜八郎、少々待っては、」
「あげませーん」
「っ、ずいぶん沢山掘ったね」
「黒彦先輩が構ってくれないからです」
「じゃあ、喜八郎は何をしたい?」
「黒彦先輩を落としたい」
「一度落ちたけれど…」
「まだ足りないです」


さすが名神先輩、と言ったところなのだろうか。体勢を立て直してからは穴に足を取られることはない。印はあったりなかったりとまちまちなだが、名神先輩は印のない箇所も意図的に避けているように見える。

なかなか落ちない名神先輩に、喜八郎もさぞや苛ついているのではと思った。しかし、その表情は最初の頃よりもずっと活き活きしている。…そうか、私より、名神先輩の方が喜八郎のことをよく分かっているのかもしれない。

そしてふと、名神先輩はどんな顔をしているのかが気になってそちらに視線を向けた。




 懐かしいな


動いた唇の音を読み取って、後悔した。
両目に映る懐慕の色を見て、後悔した。


(あれは、だれだ)


やはり私は、名神先輩が苦手だ。




無垢な赤子見せたる白昼夢


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色変わりて