涙の糸を結び開いて綻ばせ



正直、七松先輩が突然現れた時はどうなるかと思いました…。

咄嗟に動いた体は、私の意思から離れた動きをしました。あれは私が覚えたものではありません。


私の中の誰かは時折こうして顔を出す。無意識下の中で感じる自分以外の意思。それはまるで体に染み付いたかのような動きであったり、当たり前のものとして捉えていたかのような知識であったり。

入り乱れた意識が“私”を覆い隠す。見失わないようにと手を伸ばすのに、指先を掠めるのは別の“誰か”。





「黒彦、まだ起きてる?」
「勘右衛門くん…それに兵助くんまで。何かあったんですか?」
「敬語、戻ってる」
「あ、すみま…ごめん、ね」
「ん。入ってもいいか?」
「うん。座布団出すよ」


夜も更けた頃、私の部屋の戸を叩いたのはい組の二人でした。結い上げられていない長い髪が揺れて、順に部屋の中へと滑りこむ。二人が腰を落ち着けたのを見計らって、もう一度最初の質問を繰り返しました。

しかし、返されたのは別段用はないという言葉。

私は戸惑ってしまう。部屋の前に下げられた札には私の名前しかありませんし、同室の者に気兼ねする必要もない。二人が来てくれたことは単純に嬉しい。けれど二人が私の部屋に来たのは初めてで、尚且つ用がないとなるとどう対応していいのか分かりません…。


「ちょっと黒彦、落ち着いて。そんなに怯えなくても大丈夫だから」
「勘右衛門くん…だけど…」
「まだ黒彦とそんなに話したことないから、ちょっと遊びに来てみただけだよ」
「そういうこと」


遊びに来た。

何度も、何度も、その言葉を頭の中で反芻させる。じわじわと指先まで広がるような温かさに堪らなくなって、私は思わず俯いてしまいました。

せっかく来てくれた二人に茶菓子のひとつでも出したいのですが、こんな時間に食べては虫歯になってしまいます。仕舞い込んであるそれは意識から遠ざけて、必死に話題を探しました。


「あの、二人は、棗さんのことを…どう思う?」
「棗さん?なんで急に?」


きょとん、とした顔をする勘右衛門くん。表情は違えど、兵助くんも同じ疑問を抱いていることでしょう。

私はこの機会に、とぽつりぽつりと言葉を落としました。


「棗さんは裏表のないお方。忍術学園にいる以上、最低限の接触は免れられないけれど…彼女は決して“忍”の部分には触れようとしない」
「…それは、俺たちが黒彦の口から聞いてもいいのか?」
「クラス対抗戦は無意味だよ。聞きたいと思ったことを素直に聞けば、棗さんはなんでも答えてくれるから」


その証拠に、素直な一年は組のよい子たちの質問にはいつも楽しそうに答えています。最初の内は棗さんの線引きを不可解とすら思っていましたが、側にいればすぐに分かることでした。

棗さんは害意、敵意といったものに敏感なだけで、私たちに対して心を閉ざしているわけではありません。

だから早くみんなにもそのことを知って欲しいと言うと、二人は顔を見合わせて困ったように笑っていました。


「たしかに、上級生は棗さんのことをかなり警戒してる。棗さんはそれを感じ取っていたんだな」
「俺たちが話しかけても答えてくれるかなあ…」
「明日にでも、会いに行ってくれると嬉しいよ。棗さん、花札の相手を探してるから」


棗さんの行動は彼女自身が自粛していること、更に忍たまたちが多くの接触を持てるようにという理由からほとんど制限されていません。だから夜になるとたまに、私の部屋へ花札をしに来ることもありました。

喜八郎は気まぐれにやってきて、そのまま朝まで寝てしまうことも多かったのですが。


「ああ、花札。それちょっと気になってたんだよね」
「綾部もできるのか?」
「うん。あとは潮江先輩も…たぶんもう少しで」
「え、潮江先輩!?いつの間に…」


意外な名前が出たことに勘右衛門くんは顔をしかめていました。兵助くんは先を越されたと小さく笑っていて、私はまだつい最近のことだからと相槌を打つ。

花札というものは棗さんよりもむしろ、私たちに親しみやすいようにできています。季節の花、暦のずれ。きっと二人もすぐに覚えられるはず。何より暗記は忍の得手とするところですから。


「じゃあ明日棗さんに会いに行ってみるけど…黒彦も一緒に来てくれる?」
「たしかに、黒彦もいた方が棗さんも話しやすいだろうから、いてくれると助かる」
「分かった。そういうことなら喜んで」


どこか不安そうにする勘右衛門くんに笑って返すと、ほっと息を吐いて肩を下ろしていました。

そうして他愛のない話を少しして、明日の授業に響いてしまうからと部屋に帰るよう促す。歩き慣れた廊下を明かりも灯さずに進む二人を見送り、何年ぶりかの明日への期待を胸に抱きながら眠りにつきました。




涙の糸を結び開いて綻ばせ


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色変わりて