呟く言の葉こころへ落ちて



棗さんに一通り花札を叩き込まれた潮江先輩が委員会に戻り、喜八郎がふらりと穴を掘りに行き、善法寺先輩が落とし紙の補充に行き、棗さんが雑務へと戻って行った後。一人になった医務室はとても静かで、奇妙な居心地の悪さに寝返りを一つ。


棗さんが来てから、忍術学園は少しばかりその様を変えました。私の周りの環境も少しずつ、確実に変わってきています。嬉しさはもちろんあるけれど、戸惑いの方が遥かに大きい。

そして、言い様のない“暗い何か”が胸の底に沈んでいる気がするのです。ひとつ、ふたつ。投げ込まれた石で泥が舞い上がる。水面からはまだ、水の底は見えない。




「失礼しまーす…って、あれ?名神さん一人?」


背を向けた入り口の方から聞こえたのは尾浜くんの声でした。けれど気配は二つ。狸寝入りをしてしまおうか躊躇って、強張った気配を誤魔化すこともできないまま体を起こす。

尾浜くんと医務室へやって来たのは、彼と同じ五年い組の久々知兵助くん。軽く目を伏せて挨拶を交わすと、尾浜くんの隣へと腰を下ろしました。印象的な力の強い目は、じっとこちらを見据えたまま。


「新野先生なら、もうじき来られるはずですが…」
「そっか。名神さんのお見舞いに来ただけだからすぐに戻るけど…起きてても平気?」
「はい。もうなんともありませんよ」
「良かったー…って言うのも変な話しか。元々は俺が原因なんだし…」
「あの、どうかお気になさらず…。本当に、私も気にしていないのですから…」


こうして彼を落ち込ませてしまうことに罪悪感を感じる。悪意あっての行為でないということを教えていただけた。それで十分なのです。むしろ今回のことが言葉を交わすきっかけになったのですから、私は十二分とさえ思っています。

しかし、それを伝えてしまうのはあまりにも不謹慎。どう言い換えれば良いのか分からず、中途半端に持ち上げた手のひらで布団を握る。喜八郎と話す時、いつも、どうやって言葉を見つけていたのか…。




「あのさ、二人ともちょっといいか?」


唐突に、場の沈黙を裂いたのは久々知くんでした。急に呼ばれたことと、相手が慣れない人であることで変に緊張してしまう。渇いた喉が貼り付いて気持ち悪い。

どうにか絞り出した“はい”という返事。尾浜くんも何?と首を傾げて久々知くんを見る。彼は少しだけ眉間に皺を寄せてこう言いました。


「二人とも固すぎる」


私、それから尾浜くんと順に人差し指をつきつけて、これなら見合いの方がましだと皮肉を混ぜる。そう言われてしまうと返す言葉もありません…。


「すみません、まだどうしても緊張してしまうので…」
「名神はそれ」
「え…?」
「それってどれ?名神さんもそれだけじゃ分からないんじゃ、」
「勘ちゃんはそれ!」
「え、俺も!?」


それ、と言われたのはどれなのか。分からない私たちは揃って首を傾げました。


「名神は正座してるからいいとして、勘ちゃんも隣に正座して」
「は、はい…」
「まず、名神は敬語をやめろ。下級生には敬語じゃないんだから、癖ってわけでもないだろう?」
「あの、その…半分は癖のようなもので…」
「じゃあその癖ごと直すんだ。同じ年で上も下もないのにわざわざ敬語を使うのはおかしい。…返事は?」
「はい…っ」


久々知くんの勢いに気圧されて返事はしたものの、すぐに直せるとは思えません…。末っ子の私は必然的に兄姉の友人をはじめとした年上の人と接する機会が多く、幼い頃についた口調は永くそのまま。

ああ、けれどここで諦めては今までの私と何一つ変わりません。それはもう、嫌なのです。私は、私自身を変えたい。


「分かった。少しずつ…慣らしてみるよ」
「うん。それがいい」


どきどきと、心臓が早鐘を打つ。緊張と、少しの高揚感。頬が熱くて、握り締めていた手のひらは薄く汗ばんでいる。…久々知くんは、とてもすごい人です。


「じゃあ次は勘ちゃんね」
「うっ」
「勘ちゃんは名神のことを“さん”付けで呼んでる。これじゃあまるで他人行儀だ」
「…俺、全然気づかなかった…」
「まあ、そんなことだろうとは思ったよ。俺の言いたいことはもう分かっただろ?」
「うん」


隣で正座をしていた尾浜くんが大きく頷いて、体の向きを私の方へと変える。私も釣られるように尾浜くんへ向き直し、この行動の意味を考える。

真ん丸で、大きな目。前のめりになった彼は両の目に私を映して、こう言いました。


「これからはさ、黒彦って呼んでもいい?」
「…は、」
「黒彦も俺のことは下の名前で呼んでくれて構わないから。あ、勘ちゃんでもいいよ?」
「俺も、兵助でいいからな」
「っ、わた、し、」


嬉しくて、嬉しくて、声が震えて、何度も何度も頷くことしかできません。涙はこらえて、溢れてしまう笑みは抑えずに。

きっと彼らにとっては些細なことなのでしょう。それでも私にとっては何年もかかってようやく雪が溶けたような出来事。ほんの少し前までは、こんな日が来るなんて考えられなかったのに。


「ありがとう。勘右衛門くん、兵助くん」


この気持ちをなんと形容すればいいのか。ただひたすらに、私は嬉しい。




呟く言の葉こころへ落ちて


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色変わりて