逸らし逃げては見えぬもの


(潮江視点)


なぜ俺がこんなことをせにゃならんのだ。一枚の紙切れを燃やしながら思ったのはそんなことだった。こいつを拾ってきた奴と違い、穏やかに揺れる煙が哀愁を誘う。…しかし、


(後輩の案を盗むというのは癪だが、確かに一番手っ取り早い方法ではある)


灰になった文字をその辺の枝でかき混ぜ、僅かに成していた紙の形を崩す。敵を騙すにはまず味方から。この場合、あの女を騙すために名神を騙す。そういうことだろう。

…気に食わん。一体名神の何がそこまであの女の警戒心を緩ませたのか、見当がつかん。それがまた癪だ。俺は苛立ちに任せて燻る火種を踏み消し、その場を後にした。


朝、すれ違った留三郎の機嫌がいやに良くて気味が悪かった。素直に気味が悪いと口にすると、奴はなぜか鼻で笑って『今日は気分が良いから聞かなかったことにしてやる』と言った。なんだこの敗北感は。

昼、食堂でおばちゃんのうどんをいただく。来るのが遅くなったせいでランチは売り切れだった。先に行った仙蔵はしっかりランチを確保していたが、おばちゃんの料理はどれも美味いので悔しがることは何もない。

夕、委員会活動で少しだけ休憩を入れた。どいつも目を白黒させていたが、嘘でないと分かるとそれぞれ仮眠を取り始めた。たるんどると思う反面、無理をさせ過ぎたかと反省する点もある。委員会を疎かにして、というのはだいぶ気が引けるが、今日くらいはゆっくり寝かせてやろう。


左門が枕代わりにしていた帳簿を横に退け、机から落ちかけていた団蔵の算盤を下ろし、俺は静かに部屋を出た。一度中庭に降りて、綾部の印を避けながら進んで、向かった先はもちろん医務室。


「失礼します」
「あれ?文次郎が来るなんて珍しいね」
「来ちゃ悪いか」
「はは、別にそういう意味で言ったんじゃないよ」


医務室には乾燥させた葉やら何やらを磨り潰す伊作がいた。ここへ来た理由は何かと聞かれたが、部屋で寝ている三木ヱ門たちのことを思い出して「なんとなくだ」と訳の分からない答えを返してしまう。相手が伊作で良かった。他の奴だったらこうはいかないだろうからな。

そんなことより、


「綾部。お前はそこで何をしている」
「ごりごりを見てます」
「そうじゃなくてだな…」


明らかに患者用であろう布団の上でくつろぐ綾部。しかしこいつはどう見ても健康そのもので、怪我も見当たらない。こいつに聞いたところでまともな答えが返ってこないことは分かりきっていたから、今度は伊作にその理由を尋ねた。


「で、結局綾部は何をしているんだ」
「名神くんが厠に行っててね。戻ってくるまで布団を温めとくんだって」
「…阿呆か」
「阿呆じゃありませーん。綾部喜八郎です」


抑揚のない声で反論されて力が抜けた。こいつは怒っているのか怒っていないのかくらいはっきりさせられんのか…。そうは思っても当人は布団の中にすっぽり隠れてしまったので、返す言葉は溜め息に変えて吐き出しておく。


…名神は、人を寄せ付けない。いや、寄せ付けないと言うよりは避けたがる、と言った方がいいか。そんな名神に受け入れられている綾部は、上級生の中では極めて稀な存在だ。下級生に対しては幾分か心を許しているようにも見える名神だが、その線引きはひどく曖昧。


(線引きと言えば、)


あの女もそうだ。明確に分けられた警戒の対象。しかし何を基準にしているのかは不明。俺は弾かれ、名神は恐らく最も近い場所にいる。なんだ?何が二つを分けている?名神はあの女に気を許している。一年は組もそうだ。まったく、あの女は気配を消した俺と仙蔵に気付くほどの手練れだというのに。

…ああ、噂をすればなんとやら。


「失礼しまーす。黒彦の見舞いに来ました」
「あ、の、ただいま戻りました」


小袖をたすき掛けにした棗さんが最初に部屋に入り、後ろ手に障子を閉めながら名神が続く。それまで布団に隠れていた綾部は顔だけ覗かせると、相変わらず抑揚のない声でおかえりなさいと返した。しかし布団から出る気配はない。名神も苦笑するだけで咎める様子もない。…ったく。


「おい、綾部。布団を返したらどうだ」
「おやまあ。まだいたんですか」
「いたら悪いか!」
「意外かなあと」
「ぐ、」


思わず言葉に詰まる。たしかに、俺が今ここにいるのは不自然だろう。何せ理由がない。嘘をつかず真実も告げず“会計委員を寝かせているから場所を探していた”とでも言い訳すれば良かったのかもしれんが、どうにもそれを言葉にするのは憚られた。柄にもないことをしたのは自分が一番よく分かっている。

そして一瞬の沈黙のち、心底どうでも良さげに口を開いたのが棗さんだったことに、少し驚いた。


「まあなんでもいいだろ、理由なんて。それより善法寺くん。物は相談なんだけど」
「はい?なんですか?」
「黒彦はもう少し起きてても平気?」
「んー。熱も下がったし、痺れも抜けたみたいだし…。少しだけなら大丈夫ですよ」
「よっし!なら花札勝負だ黒彦!喜八郎も出てこい!」
「おー」


分からない。なんなんだこいつは。“花札”は南蛮からの舶来品だと聞いた。なぜそうも容易く高価な品を他人に触らせる?俺への警戒心はどこへ行った?おまけに俺に助け船を出すような真似までして…。気配、動き、表情、目。どれを注意深く見ていってもその真意が分からない。

不意に振り向いた棗さんと目が合い、勘付かれたかと肩が強ばる。どうにもやりにくい相手だ。


「何?そんなに気になるならこっち来なよ。教えてやるから」
「……は?」
「普段喜八郎はなかなか捕まらないし、丁度もう一人花札できる人が欲しかったんだよね」
「いや、誰もやるとは一言も…!」
「んじゃ、やれ」


有無を言わさぬ口調に二の句が継げない。伊作は後ろで笑ってやがるし、綾部も無表情でじろじろ見てきやがるし、あの名神ですら目元が緩んでいる。…ほんっとうに訳が分からん!そもそも最初に会ったと時と性格が違うだろう!猫でも被ってたって言うのか!?…それも何か違う。


「文次郎、深く考えるだけ無駄だよ?」


そう言って苦笑する伊作は、いろいろと諦め切ったような顔をしていた。


…この時は混乱する頭を整理するので手一杯だったが、後になって名神の笑った顔を見るのは随分久しいということに気付いた。あいつ、あんな顔で笑うんだっけな。




逸らし逃げては見えぬもの


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色変わりて