足るを知るため他を知れと


(食満視点)


朝靄が溶ける。冷えた空気を肺に送れば寝ぼけた頭も冴えていく。昨日は倒れた黒彦の分の仕事まで手が回らず、中途半端なまま委員会を終わらせてしまった。

黒彦は演習から戻る途中で倒れてしまったらしい。それを学園の外で見つけたと教えてくれたのは、同じ用具委員のしんべヱと喜三太だ。

伊作に詳しい話を聞くと、経緯うんぬんまでは教えてもらえなかったが『とにかく二日は安静にさせる』と言われた。つまり黒彦は今日も休み。だからなんとか朝の内に昨日の分を終わらせたくて、こうして早起きしてきたわけだが…。俺の足は、医務室の方向を向いたままで止まっていた。


(…やっぱり、見舞いに行った方がいいのか?)


黒彦は委員会の後輩で、下級生の多い用具委員会では貴重な戦力。もちろん作兵衛もよくやってくれているが、まだそこまでの負担は掛けられない。その点、黒彦は集中力の切れやすい一年は組の二人をうまくまとめてくれるし、危険な高所作業は率先してこなしてくれる。

いつも、あいつが俺の後輩で良かったと思っている。


「様子だけでも見に行ってみるか」


躊躇って、一歩踏み出す。土を踏み締める音は靄に吸われて、呆気なく消えていった。



俺が二年であいつが一年の時。
黒彦は俺にとって初めてできた後輩だった。一丁前に先輩面がしてみたくて、あれこれと構うことも多かった。黒彦はいつも、俺の後ろをくっついて歩いていた。

俺が三年であいつが二年の時。
黒彦の独り言が増えた。かと思えば狂ったように叫ぶこともあった。できる限り先輩が傍にいて、黒彦が気を違えればすぐに抱き締めて、名前を呼んでいた。黒彦は、俺を避けるようになった。

俺が四年であいつが三年の時。
黒彦が気を違える回数は減っていた。だが“気違いの黒彦”の名は学園中に知れ渡ってしまっていた。黒彦は俺と目を合わせなくなり、委員会以外で言葉を交わすこともなくなった。

俺が五年であいつが四年の時。
一つ上の先輩が卒業した。最後に言われた言葉は“名神をよろしく頼む”だった。今さらどうしろっていうんだと思う反面、あいつはもう大丈夫なんじゃないかとも思った。けれど俺はひとつ、頷いた。

俺が六年であいつが五年の今、




「…食満先輩?」
「え、あ、黒彦…」


医務室の濡れ縁に腰掛けてぼんやりと遠くを眺める黒彦が、そこにいた。寝間着のままだし、俺の名前を呼ぶ声は少し掠れていてまだ起きたばかりなんだろう。…と思ったが、気の利いた台詞のひとつも言えず、おはようと返すだけで精一杯だった。

黒彦もまた、おはようございますと静かに返してきた。だが、それはいつもと違って、


(ちゃんと、目、見て……)


真っ直ぐにかち合った視線。穏やかで、静かで、だけど温かい、目。

体の具合はどうだ。もう起きても平気なのか。作兵衛も心配している。早く治せ。いや、ゆっくり休め。お前がいないと委員会も大変だ。違う、いつも負担を掛けて悪かった。だから、だから。

言葉はずっと喉の奥で渦巻いている。ぐるぐると絡まって、つかえて。結局それは焼けるような痛みにしかならなず、いつも吐き出す前に言葉は消えた。ああ、クソ。なんだこれ、何て言えばいいんだ?ただ後輩と挨拶をしただけなのに。他の奴と同じように話せばいいだけなのに。当たり前が分からなくて吐き気がする。


「あの、食満先輩…?どこか具合が悪いのでしょうか」
「…悪い。すごく」
「それでは新野先生をお呼びして…」
「いや、いい」


立ち上がりかけた黒彦の肩に手を置き、俺も隣に腰を下ろす。一瞬戸惑ったような仕草を見せた黒彦だったが、すぐに観念したのか大人しくなった。

自分で言うのもなんだが、俺はぐちゃぐちゃ悩んでまともな答えが出せるような頭をしていない。上手い言葉も持っていない。向こうがどう思っているのかも分からないし、俺がどう思われているのかも分からない。こういう時、仙蔵みたいに口が上手ければ、と思わなくもない。

結局言葉は出なくて、黒彦の頭を撫でて気不味い空気を誤魔化した。もう、あんまり心配かけさせんなよ。




足るを知るため他を知れと


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色変わりて