夜明け烏が焦がれた朝に



目を開け、次いで体を起こそうとするも思うように動かず。身動ぎひとつ程度しかできない体はまるで自分のものでないかのよう。


「おや、気がつきましたか」


穏やかな声に続いて部屋がぼんやりと明るくなりました。けれど、ずっと閉じていた目にその光は些か強すぎたようで。自然とすがめた目を優しく覆うように乗せられた手の平は、ひんやりと冷えていて心地好かった。


「まだ熱が下がりませんね。何か食べれそうですか?」
「お粥、程度なら…」
「それなら良かった。今丁度取りに行ってもらっているところですから、その間に簡単に説明してしまいましょう」


私の傍にいたのは新野先生でした。しかし鉛のように重たい体は同時に思考力まで奪っていく。

どうして新野先生がいらっしゃるのでしょうか。どうして私は寝ていたのでしょうか。どうして私の体は思うように動かないのでしょうか。疑問は泉のように湧いて出るのに、動かすことすら困難なこの口が疎ましい。


「昨日…と言っても、もう一昨日になりますが、何か薬を嗅がされませんでしたか?」


新野先生の問いにひとつ頷く。新野先生も同じように頷き、話を続けました。


「本人に悪気はなかったようなのですが、その薬に誤って痺れ薬を混ぜてしまったそうです。遅効性で、とても強いものを。そして黒彦くんが学園の外で倒れていたところを一年は組のよい子たちが見つけてくれたんです」

「ああ、薬の管理については伊作くんにこっぴどく叱られてましたから、二度と同じようなことはしないでしょう」

「けれどこれはきっと良い機会ですよ。黒彦くんもきちんと面と向かって話をしてみなさい。必要なのはきっかけと、ほんの少しの勇気です」


思わず、閉じていた目を開きました。良い機会、きちんと、面と向かって…。新野先生は常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべるだけで、それ以上語る気はない…というより語る必要はないとおっしゃっているようでした。

ぐるぐる、言葉と視界が回る。無理に起こした体はまだほとんど回復していなかったらしく、頭が上がった拍子に視界が白く飛びかけた。けれど私はそれどころではなくて、自分の都合の良い方に解釈しようとする頭を叱咤して、分からない、まだ分からない、違うかもしれない、きっと違う、と負の言葉を幾重にも重ねて蓋をした。

いつだって私は、私の中の誰かのせいにして、ただ逃げているだけの臆病者。明けることのない夜の中、抱えた一人膝はいつも涙に濡れていた。

…私は、朝が恋しい。




「新野先生、すみませんが開けてもらって良いですか?両手が塞がっちゃってて…」
「おや、丁度いいところに戻って来ましたね」
「はい?…あ、どうも」


震える手の平は、布団を握り締めて誤魔化した。
震える心は、大丈夫と言い聞かせて誤魔化した。
必要なのはきっかけと、少しの勇気。

呼ばれた新野先生が障子を開き、それと入れ替わりに一人の生徒が顔を覗かせる。手には一人用の土鍋、丸い目は更に見開かれて、小さく開いた口から零れ落ちたのは私の名前。新野先生は少し席を外します、とだけ言い残して保健室から離れて行きました。私も彼…尾浜くんの名前を呼んで、必死に次の言葉を探しました。

この土鍋はきっと、新野先生がおっしゃっていたお粥でしょう。今がどれくらいの時間なのかは分かりませんが、学園内のこの静けさから見て夜も遅いことは確か。そんな時間にお粥を持ってきてくれた。それだけで私の心はふわふわと温かいものに包まれていくようでした。

布団の側にそっと下ろされた土鍋。尾浜くんはその隣に正座すると、緊張した面持ちで言葉を絞り出しました。


「俺、その、名神さんに…」
「はい」
「…痺れ薬、嗅がせたんだ。例のクラス対抗戦で行き詰まって、名神さんは棗さんと仲が良いし、きっと成績も良かったんだろうって思って、確かめたくて……部屋に、忍び込んだ」
「…はい」
「だから、その…ごめんなさい」


ごめんなさい。この言葉は私にとってひどく、懐かしいもの。

…私は長い間、ごめんなさいも届かないような場所に膝を抱えて座り込んでいた。喧嘩をするような相手もいなかった。距離を置いたのは私が私自身を少しだけ知って、周りが少しだけ見えるようになって、その時見えた皆の目がとても怖かったから。疑うような、探るような、猜疑の目。見えたのは一瞬です。瞬き一つ後には、私は世界を閉ざして殻に閉じ篭ってしまっていた。

…ああ、ごめんなさいだなんて、いったいいつ振りに聞いたでしょう。


無意識に細まる目。今なら、聞ける。彼はこんな私に、歩み寄ってくれた。この機会を逃せば、私はきっと、諦めてしまう。


「…ひとつだけ、お聞きしても良いですか?」
「は、はい」


あと必要なのは少しの勇気だけ。息を吸って、吐いて。動かしづらい唇で言葉をつくる。目を逸らしてはいけない。もう、私は私から逃げてはいけない。


「尾浜くんは…私のことが、お嫌いですか?」
「なん、で、」
「どうか、正直なお気持ちを教えてください」


尾浜くんは私から目を逸らさない。けれどすんなりと言葉が出てこないのか、何度も口を開いたり閉じたりしています。私は上手く息が吸えず、肩を上下させながら次の言葉を待ちました。そして彼の口が一度だけ真一文字に引かれた後、ゆっくりと、解くように言葉が紡がれました。




「俺は、名神さんのことは好きでも嫌いでもない」




真っ直ぐな目。真っ直ぐな言葉。嘘偽りのない、ありのままの感情。

その先を聞くのは怖かった。その先を知るのは怖かった。握り締めた手の平からは血の気が引いて、そのくせ嫌に汗ばんでいる。気持ち悪い。吐いてしまいたい。ついには耐えられなくなって、私は身を屈めて彼から目を逸らしてしまった。


「…好きでも嫌いでもない。だって俺、名神さんのことまだ何も知らないんだ。ちゃんと話したのだってきっと今日が初めてだし」

「だから、これから少しずつ、教えて欲しい。名神さんのこと」


屈めた背に添えられた手の平から、じわりと広がる温かさ。さっきまでの気持ち悪さなんてどこかに行ってしまいました。血の気の引いた手の平にも熱が戻り、そしてそれは徐々に上へと上がって、目から順に零れ落ちていく。


「ありがとう…ありがとう、ございます」
「え?…あ、な、泣いてる!?ごめん、俺何か言った!?」
「違うん、です…。嬉しくて、ホッとしてしまって…」
「よ、よくわかんないけどとりあえずお粥食べて薬飲もう!ね!?そしたらきっと落ち着くから!」
「は、い…。ありがとうございます…」


優しくて、温かい。手を伸ばせば届く距離に、それはずっとあった。私が夜だと思っていたものは、ただ私が目を閉じて、耳を塞いでいただけの闇だった。

夜が少しずつ、明けていく。




夜明け烏が焦がれた朝に


(15/25)


色変わりて