欠いた戒めだれぞを誘う


(久々知視点)


名神の所へ行った勘ちゃんはなぜか行く前よりも曇った表情で戻ってきた。すぐに授業をサボったことを木下先生に怒られていたが、それを差し引いても元気がなさすぎじゃないだろうか。気になった俺は授業が終わった後、二人で部屋に戻って膝を突き合わせた。


「何かあったのか?」
「あったっていうか…いろいろありすぎた。善法寺先輩コワイ」
「?」


板張りの床にうつ伏せに転がり、うんうん唸り始める勘ちゃん。その口から出る単語は名神さん、薬、善法寺先輩、怖い、一年は組、じょろじょろ、綾部、団子、棗さん、男らしい、その他もろもろ。共通点は?と聞いたら保健室、とだけ返ってきた。意味が分からない。


「勘ちゃん」
「あー…待って兵助、俺も整理中だから」
「四半刻待つ」
「ありがとう…」


そして勘ちゃんはまたうんうんと唸り出した。食堂を出て薬を届けに行ったにしては戻りがやけに遅かった。きっと何かあったんだろうと思うが、勘ちゃんのすっきりしない表情を見るにそれは良いことではなかった、と推測できる。更に善法寺先輩コワイとうわ言のように繰り返していたことからして、善法寺先輩が絡んでいたのはまず間違いない。

そこから仮説を立てると、名神に謝りに行ったはいいが痺れ薬のことで怒られて逃げ帰ってきた、というところだろうか。善法寺先輩は普段は温厚だが怪我や病、薬などになると人が変わる節がある。今回は勘ちゃんのずさんな管理が原因でもあるわけだし、善法寺先輩なら怒りかねない。

まあ、部屋を散らかしたまま飛び出してったんだから俺にも怒りたい気持ちはあるんだがな。


「…よし、まとまった!」
「筆談にするか?」
「うん、その方が良いかも。棗さんの情報もあるし」
「分かった」


とりあえず部屋のことを叱るのは後回しだ。今は勘ちゃんが得た情報をまとめたい。

誰かに聞かれてはまずい。声や矢羽根では聞かれる可能性がある。故の筆談。出しっぱなしになっていた雑紙を広げ、墨を溶いて筆をつけた。走り出した文字は口から出るより時間が掛かるが、図を交えて視覚で認識する分、頭には入りやすい。


一年は組、綾部、それに棗さんがいた。名神さんを見つけたのは一年は組の子たち。人を集めたのも一年は組の子たち。綾部と棗さんは名神さんと親しいから呼ばれたみたい。

善法寺先輩は?

治療のために。新野先生もいらっしゃったよ。しんべヱと喜三太が泣き止まなくて、綾部が名神さんを起こそうとするから棗さんが頭ひっぱたいて止めてた。

…意外と荒っぽいんだな。

うん。あと男らしい。



四角い枠組みの中に丸が十六。衝立に見立てた横線で区切られ、そこから大体の位置関係が分かる。名神を囲むように並ぶ丸が思った以上に多くて、気付かれないように何度も数え直したのはここだけの話。


それで、きちんと謝ったのか?


淀みなく動いていた手が、この質問をした途端にぴたりと止まった。いや、ぴたりと言うよりはぎくり、と言った方が良いかもしれない。筆先から落ちた墨が紙の上で小さく跳ねる。勘ちゃんの動きは止まったまま。仕方なく、床板にシミができる前にとその筆を取り上げた。


それじゃあ、薬はどうした?

「…置いてきた」


勘ちゃんはそれだけ弱々しく呟いたっきり、貝のように口を閉ざし、紙から離れて部屋の片付けを始めてしまった。思わず溜め息を漏らす。勘ちゃん、逃げるな。

仕方なく用の済んだ紙と他の雑紙を持ち上げ、転がっていた火打石をその一番上に乗せて部屋を出た。障子を閉める間際、明日また謝りに行くという声が聞こえたけど、返事を返さずにその場を立ち去った。


…勘ちゃんもそうだけど、俺も大概、名神黒彦という人物との距離の取り方が分からずにいる。まず組が違ったし、俺が彼を知ろうとする前に三郎が彼を嫌うようになって、八が彼を恐がるようになったから。だから気がついた時には彼との間に壁ができていた。越えられないわけではないけれど、近づくことをためらわせる壁。

そしていつの間にか、俺は彼への興味を失っていた。





(一年は組、か)


丁度、視界の端を小さな井桁柄の集団が横切った。その中には委員会の後輩である二郭伊助の姿もある。もう陽も暮れるというのによい子たちは食堂とは逆の方へと駆けていく。少し心配になって、紙の束を抱えたまま小さな背中を追いかけた。


「伊助、こんな時間にどこへ行くんだ?」
「あ!久々知先輩こんにちは!」
「ああ、こんにちは。それでお前たちは…」
「あれ?久々知先輩だ。こんにちはー」
「…うん、こんにちは。それで…」
「なんで久々知先輩がいるんですか!?」
「え?本当だ!」
「こんにちはー!」
「挨拶はいいから、こんな時間に…」
「あれ?久々知先輩、いつの間に?」
「もうすぐ暮れ六だから、こんにちはじゃなくてこんばんはじゃないかなぁ?」

「………」


きりがない。俺に気付く、挨拶をする、他の子が俺に気付く、挨拶をする…の効率の悪い連鎖が続く。いつもこの子たちの相手をしている土井先生のご心労は察するにあり余る。

さて、どうやって止めるかと一考すること数歩の間。しかし、思考はくのたま長屋の方向から歩いて来た棗さんの登場によって遮られてしまった。棗さんは走るよい子たちを見るなり、少し表情を硬くしてたった一言、こう叫んだ。


「全体、止まれ!!」
「はい!」

「よい子は!」
「急には!」
「止まれないいいい!」


先頭を走っていた学級委員長、黒木庄左ヱ門の背中に次々と突っ込んで行く子供たち。それを呆れた様子で眺めていた棗さんだったが、俺に気付くと小さく会釈をしてきた。着物の袖を肩まで捲り、手には桶と雑巾を持っているところからして今までどこかの掃除をしていたのだろう。俺も会釈を返して、ずれた紙の束を抱え直した。


「おいチビ共、こんな時間にどこ行くつもりだった?もうすぐ暮れ六の鐘も鳴るだろが」
「僕たち棗さんのことを探してたんです!」
「あたしを?…なんでまた」
「一緒にご飯食べようと思って」
「あー…そのお誘いはすごく嬉しいんだけどさ、なんと言うか…うん。あたしは後から行くよ。みんなで食べといで」
「棗さんいっつもそれじゃないですか!たまには一緒に食べましょうよ!」
「けどなぁ…」


どうやら一年は組の子たちが探していたのは棗さんだったらしい。全体止まれの号令で潰れていたのもすぐに復活。わらわらとねだるように棗さんの足元に集まり、必死に袴の裾を引いていた。そこで「久々知先輩もなんとか言ってください!」なんて振られたって、俺は忍術学園上級生という立場上、是と頷くわけには…。


「いいんじゃないか?私も賛成だ」
「「立花せんぱぁい!」」
「…しんべヱ、喜三太。お前たちはそれ以上近付くな」


突然現れたのは立花先輩。どういうわけかしんべヱと喜三太の顔を見るなり盛大に顔をしかめていた。というか…は?この人、今なんて言った?


「どうした久々知。呆けていないでさっさと歩け。彼女たちはもう食堂へ向かったぞ?」
「…なぜ、許可したんですか」
「簡単なことだ。このままでは“埒が明かない”と思った。それだけのこと。ああ、それと…」


遠くで幼い笑い声が上がっている。よほど嬉しかったんだろう。両手を引いて、背中を押して、彼女が持っていた荷物は取り上げて、早く早くと笑っていた。

そんな無邪気な笑みとは程遠い、意味ありげに口角を持ち上げる立花先輩。そう構えるなと言われたが、それは構えてももう遅い、という意味だった。


「筆談もいいが、始末は先にしておくべきだったな」


ひらり、白い指先に遊ばれる紙に、俺はがっくりと肩を落とす。勘ちゃんゴメン。厄介な人に盗られた。




欠いた戒めだれぞを誘う


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色変わりて