詫びを届けに馳せ参ず


(善法寺視点)


僕は名神黒彦という人物をあまりよく知らない。同室の食満留三郎の委員会の後輩で、気違いの黒彦と呼ばれていて、彼が僕たち上級生を苦手としていることは知っていたけど、精々そのくらい。同室の留三郎は一度だけ僕に「俺、嫌われるようなことしたか…?」とこぼしたことがある。何か言われたの?と聞いたら、目を合わせてくれないんだ、と言って留三郎は項垂れていた。どうやら僕たちは線引きされた彼の世界の外側にいるらしい。

…なんて結論付けてしまった二年前の僕は、きっとまだ幼くて、弱くて、馬鹿だったんだろうなって今なら思う。


「黒彦せんぱぁい!死んじゃいやですううう!!」
「今度ぼくたちと一緒にお団子食べに行く約束したじゃないですかあああ!」
「何それ、聞いてないですよ黒彦先輩。お団子食べに行きましょう今すぐに」
「おい喜八郎!病人を無理矢理起こすなっての!悪化するから!あと喜三太としんべヱも別に黒彦は死んだりしないから大袈裟に泣くのやめろ!」


べしんばしんと順番に頭を叩いていったのは棗さん。少し前、忍術学園に突然現れたこの人は僕や他の上級生たちの前では決して隙を見せない。こうやって人らしい感情を出す所は初めて見た。

頭を叩かれた喜三太としんべヱは口をぐっとへの字に曲げて新野先生を見ている。綾部はふて腐れた顔。棗さんはどっかりと胡座をかいて座り直し、新野先生の診断を待つ体勢になった。お、漢らしい…。

衝立の向こうには他の一年は組のよい子たちもいる。僕は団蔵と虎若に連れて来られて、新野先生は庄左ヱ門と伊助に呼ばれたらしい。棗さんはきり丸と金吾、綾部は兵太夫と三治郎に。しんべヱと喜三太は名神くんから泣いて離れず、保健委員の乱太郎がその付き添いで保健室に残った。


僕は驚いた。名神くんがこんなにも慕われていたということに。

僕は嬉しかった。名神くんがこんなにも慕われていたということが。

だから不謹慎にも頬を緩めてしまいそうになって、慌てて手の平で口元を覆い隠した。なんて言うんだろう、上手く言えないけど自分のこと…いや、自分の子供のことのように嬉しかった。留三郎からいろいろ聞かされてたから、直接の関わりはなくとも彼のことを他人とは思えなかったんだ。それだけに…。


「い、伊作先輩、黒彦先輩はそんなにひどいんでしょうか…?」
「あ、ああ、大丈夫だよ。かなり強い痺れ薬にやられたみたいだけど二、三日もすれば動けるようになるから」
「ホントですか!?」
「ただし安静にしていれば、です。皆さんはそろそろ授業に戻りましょうか」
「「「はーい」」」


新野先生にそう言われて、よい子たちはよい子の返事をして保健室を出て行った。最後まで渋ったしんべヱと喜三太は棗さんが背を押して。じゃあねと他人事のように手を振っていた綾部も、すぐに彼女に襟首を掴まれて引きずられていった。

彼女は気配を消した仙蔵と文次郎は気づいたのに、天井裏の“彼”に気づいた様子はなかった。理由は分からない。眠る名神くんの顔からは血の気が引いていて、まだ意識は戻りそうにない。彼なら理由を知っているんだろうか。僕には棗さんのことが分からない。


「伊作くん。そんな顔をしていてはまた一年は組の子たちが心配してしまいますよ」
「す、すみません」
「君も…尾浜くんも、難しく考え過ぎているんでしょうね」


にっこりと、いつもと同じように温かな笑みを称えた新野先生は天井を見上げて声高に言った。急に名前を呼ばれて動揺したのか、希薄だった気配がぐらりと揺れる。そして少し遅れて気まずそうに目を伏せた尾浜が天井裏から降りてきた。僕よりやや遅れてやって来た彼は今の今までずっと気配を殺して天井裏に隠れていた。意図せず、険のある音が喉から漏れる。


「何か用?」
「あ、その…名神くんに、少し」
「見ての通りだから、またにしてくれないかな?」
「伊作くん。何も聞かずに追い返してしまうことはないでしょう」
「ですが、」
「伊作くん」
「…はい」


たしなめる声は柔らかい。けれど有無を言わせぬ何かがある。僕もちょっと頭に血が昇っちゃってたかもしれない、と深く息を吐いて気持ちを落ち着ける。よし、大丈夫。


「それで、尾浜くんは名神くんにどんな用が?」
「謝りたいことが、二つほど…」
「ふむ。それでは私たちが言伝てを預かるわけにはいきませんね。そういったことは本人に直接、というのが礼儀ですから」
「あ、じゃあせめてこれだけでも…!」


謝りたいってことは名神くんに何かをしたってこと。それを今の名神くんの状態と結びつければ答えは容易く出た。下がりかけた血が上るのもまた、容易い。


「尾浜!まさか君は…!」
「伊作くん、声を下げて。名神くんが起きてしまいます」
「す、すみません!事情はまた後日説明させていただくのでこれだけお願いします!粥か何かと飲ませてください!それでは失礼します…!」
「あ、こら…!」


早口に言い切って、尾浜は懐から小さな包みを出すと逃げるように保健室を飛び出して行った。何度目とも知れない新野先生のたしなめるような声が耳に痛い。分からなかったことがいっぺんに分かったような気もするし、分からないことがいっぺんに増えたような気もする。頭が、痛い。

残された包み…薬包を開き、新野先生は匂いを嗅いだり、少しだけ舐めとったりして中身を確認している。また痺れ薬だったらどうするんですか、という皮肉は辛うじて飲み込んだ。


「大丈夫。これが彼の誠意です」


にっこりと笑う新野先生はどこまでも穏やかで。…一人先走って気を立てていた自分が急に恥ずかしくなった。誤魔化すようにした咳払いも新野先生の笑い声に紛れて消える。ああ、六年生なのにみっともない所見せちゃったなあ…。




詫びを届けに馳せ参ず


(13/25)


色変わりて