髑髏の意味を知る


『むむむむりです! たかいです! こわいですぅう!』
『君のその“恐怖”はまやかしだ。高所がなぜ怖いか、それは落ちたら死ぬと思うからだろう? 幽霊は死なん。だから怖くない』
『お、お、お……っ!』
『落ちん落ちん。ほうら、手を離すぞ?』
『リッドさん、イキイキしてんなァ』

 右足はマストの上、左足は宙ぶらりん。ぼくがしがみつく先は、女性を口説くような不敵な笑みを浮かべるリッドさん。幽霊にできることのひとつ、“宙に浮く”の特訓中である。
 はじまりはリッドさんの『そろそろ幽霊としての訓練を始めようか』という一言だった。安易にそれは楽しそうだと頷いてしまった過去の自分が恨めしい。リッドさんの性格を考えれば分かりそうなものだったのに。ぼくの馬鹿。
 見かねたポーカさんが宥めてくれたことで解放されたが、リッドさんの(嫌な)瞳の輝きは失せていない。隙を見てぼくをからかうつもりでいる目だ。今後は警戒を強めるものとする。

 ぼくがハルタに拾われてから、今日で一週間が過ぎた。
 天候は晴れ。風は東北東から緩やかに吹き、甲板では西からやってきたニュース・クーが新聞を売り歩いている。この船にはたくさん人が乗っているから、一部や二部では足りないのだろう。制帽をかぶったカモメに気づいた人たちが順に新聞を買っている。そうして鞄の中身がすっかり空になったところで、カモメはご機嫌に空へと飛び立っていった。
 たまに恵みの雨が降る程度の穏やかな海は、ぼくにとっては見慣れた母の姿だ。だが、リッドさんたちにとってはそうでないらしく、『いっそ嵐にでも巻き込まれた方が落ち着く』と口をそろえて言う。
 天候は晴れ。風は緩やか。空も海も、海賊船の行く手を阻まない。他に立ちはだかるものがあるとすれば、それは何か。

『なんだ、あいつら土産持参とは用意がいいじゃないか』
『土産? ……ああ、そういうことですか』

 二人の目が何かを捉えたようで、会話を聞きながらぼくは首を傾げた。遠くから花火のような音が聞こえる。ゆるゆると空気を震わせるそれの意味が、すぐには分からなかった。
 花火か、あるいは太鼓にも似た音。どん、どん、どどん。不規則に続く音が徐々に近くなり、四隻の船の周りで水柱が上がる。
 メインマストの天辺で望遠鏡を伸ばしていた男は叫んだ。

「二号船と三号船が帰ったぞ! 海軍のおまけつきだ!」

 途端に、火のついた栗でも放り込まれたかのように船全体が騒がしくなった。
 酒瓶を銃に持ち替え、デッキブラシを剣に持ち替え、物々しい雰囲気の男たちが甲板へと溢れ出す。指揮をとるのは各隊長たち。それぞれの部隊に指示が飛び、砲撃の用意が整えられていく。
 甲板を走り回る男たちの中には、ハルタの姿もあった。一歩出遅れて飛び出したハルタが隊長さんと並んで欄干に立ち、腰に差したカトラスをすらりと構えた。

「今どんな感じなの!?」
「敵船は四時の方向! 数は二! 二号船と三号船はすでに交戦中だ!」
「面舵いっぱァい!! 奴らの帰還祝いだ! 派手にやれェ!」
「馬鹿共がまた船壊す前に潰せよ! 戻って早々ドックにとんぼ返りじゃ笑い話にもなりゃしねえからな!」

 彼らの言葉はまるで火吹き竹だ。ひとつ叫ぶ度に勢いが増す。投げ込まれた火種はたちまち猛火にまで育ち、現れた敵を飲み込もうと舌なめずりしている。
 そして、甲板いっぱいに溢れた好戦的な炎の中から、青い火の鳥が飛び立った。空の青にも海の青にも混じらない、青。水柱に囲まれた戦場へ真っ直ぐに飛んでいくその姿に、自然と言葉がこぼれる。

『マルコさんって、きれいですよね』

 ぼくが最初に見たときも、彼はあの姿だった。白いマストから飛び出した青い炎に、偉大なる母の頭上にはあんな鳥がいるのかと驚いたものだ。そして、舞い戻った青い鳥が人の姿に変わったことにもまた驚いた。
 悪魔の実。食べた者は海に嫌われてしまうという、呪われた果実。しかし、呪いから生まれた鳥はあんなにも美しい。
 風に連なる青い尾を見送ったところで隣を見ると、なぜかあからさまにほっとした顔をするポーカさんと目があった。心なし、青ざめて見えるのは気のせいだろうか。

『そっちな、きれいってそっちな。焦ったわ』
『ふっははは! たしかに“不死鳥”マルコはそりゃあ美しいな!』

 何に焦るのかも何を笑うのかも分からない。ぼくは察することを諦めて「はあ」と曖昧な返事だけを返した。

 不意に、額を押さえるポーカさんの向こうで景色がぐるりと流れた。船が面舵をとって急旋回を始めたのだ。ロープによって操られたヤードが回る。遠心力で船体が転覆ぎりぎりまで左に傾き、マストの天辺が海の上へ迫り出す。
 当然、白ひげ海賊団マスト支部はその影響を直に受ける。重心に対して円の外周に当たるこの場所は、もっとも大きく、早く、回る。

『わ、わ、わ……!』
『馬鹿! 飛べないんならしっかり掴まってろ!』
『あ、ありがとうございま、す』

 宙に置いてけぼりにされた体は浮きも沈みもしないが、マストは確実に指先から逃げていく。恐怖で真っ白になったぼくを引き寄せてくれたのは、ポーカさんだった。童顔の中で吊り上がった目尻は怖かったけれど、助けてくれた安心感に比べればなんてことはない。
 癖のように掴んだ胸は静かなままだ。しかし、もう死んでいることは重々承知の上で言わせてほしい。

『死ぬかと思った……』
『冗談言う余裕があるんなら大丈夫だな。二度目はねえぞ』
『冗談なんかじゃないですよ! ぼくは本気です!』
『やはりわしが特訓をつけておけば』
『リッドさんはその辺でやめとかねえと嫌われますよ……』

 そんなことはないよな、と言いたげな目が向けられる。
 そんなことはありますよ、と目だけで応える。伝わるかどうかは別として。
 肩を竦めたリッドさんは、ぼくから背後のインゼルさんへと視線を移した。

『やれやれ、年寄りには優しくするものだがなあ。なあ、インゼル』
『……あんたは、言うほど老いてねえだろう』

 ところどころ掠れがちな、海鳴りのように低い声でインゼルさんは答える。一週間が経った今も、彼とは直接言葉を交わせていない。ぼくはよそ者だから、仕方ないのだと、思う。
 しかし、そんなぼくやインゼルさんなどお構いなしに、リッドさんはまたあの笑みを浮かべた。意地悪で嫌らしくて、どうしようもない笑みだ。『ふむ』と顎をひと撫でしたのち、いやに光る瞳はぼくと、インゼルさんと、そしてなぜか水柱の中心とを見比べた。

『おい、おれは、』
『さてインゼル元二番隊隊長。わしからひとつ“命令”がある』

 何かを言いかけたインゼルさんの言葉を遮り、リッドさんが口端を吊り上げる。嫌な予感しかしない。が、逃げ場がない。

『なぁに、そう構えることはない。ちょいと“二人で”向こうの船の様子を見てきてほしいだけのことだ』

 二人で、とは、ぼくとインゼルさんとで、ということ。反論の隙はなかった。インゼルさんが口を開こうとする度、リッドさんは楔のように言葉の杭を打ち込んでその先を片っ端から塞いでしまったのだ。

 もし、ぼくの姿が鏡に映るなら、きっとぼくは生前よりも青い顔をしていたことだろう。海賊を知らなかった。海賊と海軍が海で会うことの意味を、知らなかった。
 丸太のように太い腕に慈悲はなく、インゼルさんはぼくを戦場のまっただ中へと放り投げる。『おれは上にいる。帰りたきゃ登ってこい』言葉はほとんど耳に入らなかった。ただただ、目の前の光景が信じられなかった。
 無知であることは、こんなにも恐ろしいのだと、思い知らされた。

「海のクズ共が!!」
「ありがてェ。褒め言葉だ!」

 赤が、赤が、正義を塗りつぶす。
 振り上げられた剣がぼくをすり抜け、背後にいた誰かを切り裂く。目の前の誰かの顔に赤がかかる。笑っている。なぜ、どうして。
 足に力が入らない。立てない。這うようにして逃げるが、甲板には斬られ、撃たれた海兵が倒れている。もう、悲鳴すら出なかった。
 どうにかマストに手をついて立ち上がるも、銃口を向けられて身動きが取れなくなってしまった。
 引き金が絞られ、撃鉄が落ちる。破裂音。飛び出した銃弾が額を撃つ。いや、違う。すり抜けた。背後からくぐもった悲鳴が、聞える。後ろを振り向けない。凍りついた足は言うことを聞かない。背後の誰かは、ぼくをすり抜けて足元へ倒れた。下を、向いてはいけない。
 首を動かすことすら恐ろしい。視線を動かせば何かが見える。恐ろしい何かが、見えてしまう。
 ぼくは逃げるように空を仰いだ。

 ああ、これが、海賊。



髑髏の意味を知る

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