白い鯨の大黒柱


 この大きな船は、ぼくの知らないことで溢れている。
 毎日毎食が戦場のような厨房。食材と怒号が飛び交うこの場所は、幽霊の身でなければ入れなかっただろう。
 毎朝毎晩が戦場のような甲板。踊るように帆を操り、風を捕まえ、船を動かす様子は見ているだけで楽しい。
 ぼくはこの船に拾われるまで、一度も海賊というものに会ったことがなかった。凪の帯に近く、さらに磁力の弱いぼくの島。記録指針がその針の先を向けることは稀だ。定期船以外の船というだけで、あの島では珍しがられた。

『なんでお前、成仏しねえんだ?』

 男の分厚い手の中で、不思議な結び目が作られていく。見えないのをいいことに身を乗り出して手元を覗き込んでいたら、そんな声が後ろからかけられた。
 振り向くと仁王立ちのポーカさんと目が合う。世界から切り離されたぼくが、まだ生きているのではと錯覚するのはこの瞬間だ。ぼくはここにいる。だけど、違う。振り払うように軽く頭を振る。
 ポーカさんは右手からやって来た男の体をすり抜けながら、ぼくの目の前に腰を下ろした。まるで尋問。視線を逸らすことすら、許してくれそうにない。

『白ひげに未練でもあるか? お前みたいな奴がうちにいたら、忘れそうにないんだけどな』
『白ひげ……』
『昔いたんだよ。うちに殺された海兵、潰された海賊団。しこたま恨みを背負って家族を呪いに来た奴らが』

 真っ直ぐに視線がぶつかり合っているはずなのに、彼はずっと遠くを見ている。瞳の奥は仄暗く、澱みのような炎がちらつく。疑われていると気づいて、ないはずの心臓が痛んだ。

『海賊を見たのは、この船が初めてです。知らないことばかりで、楽しいから……まだ、成仏したくないです』
『質問の答えとしちゃ六十点だな。白ひげ海賊団に未練があるのかと聞いてる』
『……ありません』

 そもそも、“白ひげ海賊団”というものをよく分かっていない。ベッドの上で読んでいたのは、絵本や小説といった物語ばかりだ。家族も海賊を話題に挙げることはなかった。
 言葉が途切れ、俯き、沈黙すること数秒。渦潮のように回る緊張感が、空っぽの胸を締め上げる。
 今この船にいる幽霊はポーカさん、リッドさん、インゼルさん、そしてぼくを入れて四人。三人は白ひげ海賊団の一員だ。きっと、彼らはこの船か、この船にある何かに未練を残しているのだろうと思う。だけど、ぼくは違う。ぼくだけが、違う。
 張り詰めた空気が、不意にたわむ。緩めたのは、同じくこの空気を作ったポーカさんだった。

『ま、イジワルしてみたがただの確認だ。肩の力抜いていいぜ』
『え?』
『五日も見てりゃ、お前がなんにも知らねえってことくらい分かるってこった』
『いたっ』

 鼻が痛い。ポーカさんの人差し指がからかうように揺らされ、ようやく彼に鼻を弾かれたのだと気づいた。もう瞳の奥の澱みは消えている。先ほどまでとはまるで別人だ。

『最初はどうせすぐ成仏するだろうと思ってテキトーにほっといたんだよ。悪霊って感じじゃねえし。ヒョロいし。海とか似合わねえし』
『悪霊とか、そういう幽霊も来るんですか?』
『気にするのが“そっち”って辺りも、気が抜けるっていうかなあ……』

 深い溜め息をつかれるようなことを言ったつもりはないのだけど。軽く傾いた首をポーカさんの手で戻され、『だからそういうところが』とさらに溜め息をつかれる。反対側に傾きそうになった首は、顎を引くことでなんとか押し止めた。
 彼に言わせるとぼくは“世間知らず”で“ズレている”らしい。そんなことを言われたのは初めてだ。父さんや母さん、島の人たちにも言われたことはない。

『お前、たしかロッコっていったか? どうせあれだろ、オヤジの顔も知らねえんだろ?』
『ポーカさんのお父さんもこの船に乗ってるんですか?』
『そっからかよ』

 だからどうして深い溜め息をつかれなければいけないのか。そしてぼくの腕を掴んだポーカさんはどこへ行こうとしているのか。試しに聞いても『今の話の流れで察せないようじゃ聞いても分からねえよ』と一蹴されて終わった。
 幽霊歴一年のポーカさんは、人が来ようが家具があろうがお構いなしにすり抜けていく。慣れないぼくは手を引かれ、避けようのない障害物に逐一悲鳴をあげた。幽霊のくせにと言われても。ぼくはまだ幽霊歴一カ月にも満たない新米幽霊だ。生きていた頃の感覚が抜けなくたって仕方ないはず。
 結局、文句のひとつも挟めずに目的地へ着いてしまった。最後の扉は閉まっている。中からは微かな話し声。この中に、誰がいるのだろうか。

『ロッコ。目ェ閉じろ』
『は、はい』
『そのまま開けるなよ』

 視界の情報を遮断。背中に手のひらを添えられた時点で、嫌な予感がした。『ま、待ってくださ、』当然のように制止の声は聞き流され、体が前へと押し出される。
 目の前には扉があるのだ。ぶつかる。そう思って身を縮こませたのに。想像したような衝撃が来ないままたたらを踏んで、結局踏ん張りきれずに膝から転んだ。

『ははは! リッドのじいさんも言ってたが、ロッコいじるのは面白ェな!』
『ぼくは面白くないです!』
『悪い悪い。部屋には入れたんだから大目に見ろって』
『今度からは予め教えてくださいよ』
『善処しよう』

 胡散臭い。にんまりと笑った顔は限りなくノーに近い。またからかわれたりしないよう、こちらが気をつけるしかなさそうだ。

「……で、二号船、三号船とももうすぐモビーに追いつくとさ」

 生きた人の話し声にハッとして、とっさに息を潜めた。ポーカさんの指がぼくの後ろを指す。そして、指先を追って振り向いた先の光景、いや、人物に、ありもしない心臓がすくみ上がるのを感じた。

「追いつくまでに、また壊さなきゃァいいがな」

 酒樽に取っ手を付けたような巨大なジョッキ。軽々と持ち上げた手は、度を超した男らしさ。三日月に似た白いひげは愛嬌すら感じるのに、ジョッキの向こうから覗いた眼光がそれをかき消す。目元に刻まれた深い皺は、さながら大樹の年輪。幾重にも重ねた年の重さを物語っているようだ。
 大きい。体も、目に見えない何かも。すべてが大きい。

『ポ、ポーカさん、この人は、いったい』
『“白ひげ”エドワード・ニューゲート。おれたち白ひげ海賊団のオヤジで船長だ。この船に居座るつもりならよく覚えとけ』

 覚えるも何も、一度見たら忘れられるわけがない。
 この人がポーカさんの“オヤジ”で、ハルタの“オヤジ”で、この船みんなの“オヤジ”。大きな船に、たくさんの家族。すべて抱えても折れないからこそ、この人がお父さんなんだ。
 二の句が継げないぼくを置き去りにして、ポーカさんは白ひげさんの膝の上へ飛んで行ってしまった。見えないから、という甘えは、ぼくのなんかは可愛い方だったらしい。この人の膝に乗る勇気なんて、逆さまに振ったって出そうにない。

「時間はどれくらいかかる見込みだ?」
「ジョズは三日くらいで合流できるっつってたかな。ただ、酒が重くてそれ以上はムリだと」
「グラララ。なら三日後に宴だァ! しっかり用意しとけよ、サッチ」
「了解! ……っはー。久しぶりに戦争になりそ」
「やりがいがあるってもんだろ」
「まあね」

 空間ごと揺らすような笑い声に、尻もちをつく。“サッチ”と呼ばれた不思議な髪型の男は、最後に不敵な笑みを見せて部屋を出て行った。もちろん、扉はしっかりと閉めて。
 次に誰かが入ってくるのが先か、ポーカさんに背中を押されるのが先か。考えるまでもない。
 肩に回された腕がずっしりと重い。お手柔らかにお願いしますと言ってみたところで、彼は笑って流すのだろう。



白い鯨の大黒柱

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