小さな誓い


   この石、船に置いていいかオヤジに聞いてくる!

 そう言って甲板を飛び出したハルタのおかげで、ぼくは今もこの船にいる。



「はい、ハルタ。頼まれてたもの、できたわよ」
「ありがとう! ……って、何このフリフリ!?」
「かわいいでしょ? かわいいハルタにぴぃったり」
「おれは男だ! かわいくなんかねえし“ぴぃったり”でもない!」

 地団駄を踏むハルタに思わずくすりと笑う。同じように笑うナースさんたちも、ずいぶんと楽しそうだ。
 ハルタはお父さんに“ぼく”の乗船許可を取った足で、彼女たちのもとを訪れた。“ぼく”を入れる袋のようなものを作ってもらうためだ。そうして三日後に出来上がったのが、たっぷりとフリルをあしらったかわいらしい巾着、という次第。
 巾着を差し出したナースさんがからかっている間に、もう一人のナースさんがハルタのベルトへと括りつける。うん。よく似合っている。

「ちゃんとこまめに洗濯してあげるのよ。でないとロッコちゃんが可哀想」
「分かってるよ、もう」

 ぼくとハルタ。姿は見えないにしろ、二人そろって変な顔をした。“ロッコちゃん”とは、また。

『少々顔が赤いようだなあ、ロッコちゃん』
『ひえっ』
『妖艶な女性というのは、かくも魅力的だ。致し方あるまい。ロッコちゃんとて』
『もう! 突然出てきてからかうのはやめてください!』

 腰から下半分を壁の向こうに残したまま、意地悪なリッドさんがにんまりと笑う。この人は自身を“ベテラン幽霊”というだけあって、幽霊らしいことはなんでもできた。例えば宙に浮くこと、例えば壁をすり抜けること。ぼくにはまだ、できないこと。
 残りの半身もこちら側へ寄越すと、かわいらしい巾着を見て『ハルタにもロッコにもよく似合っている』と口の端を跳ね上げる。彼に反論を重ねることは無意味。これはぼくがここ三日で学んだことだ。
 諦めたように溜め息をつくハルタは、最後にもう一度ナースたちに礼を言って部屋を出た。ぼくは扉が閉まる前に早足で。リッドさんは閉まった扉をすり抜け、ハルタのあとを追いかける。

「みんなおれが年下だからってからかいすぎ。隊長もやたらこき使ってくるし……。あー! 早く弟が欲しい!」
『ここにいるんだがね』
『ハルタっていくつですか?』
『たしか……十八くらいじゃないか?』
『あ、じゃあぼくと同い年です』
『だそうだ。弟はまたの機会に期待しなさい』

 もちろん、ハルタにぼくらの会話は聞こえない。
 長い通路を進み、時々曲がって、擦れ違う人には頭を撫でられ、それに逐一苦情を言って。
 そうしてたどり着いた部屋の扉を、力一杯開ける。大きな音が鳴ったが、中にいた人たちは慣れたように聞き流した。

「なんだ。荒れてんなァ、ハルタ」
「別に!」

 肩を怒らせたまま向かった先は大部屋のすみっこ。そこにはぼくの小舟に積まれていた木箱がある。ハルタはベルトに括りつけられた巾着を外し、木箱の上へ放るとハンモックのひとつに潜り込んでしまった。どうやら不貞寝するらしい。

「おい、寝るなら甲板掃除終わらせてからにしろよ」
「もう終わった!」
「それならケッコウ。昼飯の時間にゃ自分で起きてこいよー」
「おれたちは起こしてやらねえからなー」

 ひとり、またひとりと男が出ていく。ハルタに気を遣ったのだろうか。残されたのは毛布の中で寝返りを打つハルタと、姿の見えないぼくたちだけ。

『いつもこんな感じなんですか?』
『たまにな。ハルタに期待しているのは分かるが、デオは人を振り回すのが好きだからなあ。若い者に奴の相手は少々荷が重かろう』

 そう言って顎をさするリッドさんは苦笑気味。ほとんど独り言のように落とされた言葉だったが、ハルタが気疲れする原因が他所にあることは分かった。年下は大変だ。
 しばらくは、ハルタが寝返りを打つ音だけが部屋に響いていた。それが止んだのは十分ほど経ってからだろうか。毛布を蹴飛ばし、部屋中に視線を巡らせ、誰もいないことを確認して下へと降りる。

「みんな行った、よな」
『わしらがいるがね』

 そんなことを言っても、ハルタには見えないのだから関係ない。

「絵本なんか広げてたら絶対からかわれるの分かってるからな。別におれが読みたいとかってわけじゃないのに……」

 極力、足音を殺して向かったのは先程の木箱の前だった。上に載っている巾着をそっと降ろし、上蓋を外す。懐かしい、絵本たち。ハルタは中身を丁寧に取り出すと、あぐらをかいた足の上にそれを広げた。
 ぼくとリッドさんもハルタのすぐ後ろに腰を下ろし、一緒になって絵本を覗き込む。

「絵本、ってことは、やっぱりちっちゃい子供、ってことだよな。きっと」
『ちっちゃい子供』
『背は低いですけど、十八ですよ。ぼく』

 絵本にぬいぐるみ、とくれば勘違いされてしまうのも仕方ないかもしれないが。
 三本の酒の内、二本は“あと二年で大人になれた”という意味が込められている。残りの一本は偉大なる母への供物。一本だけ小舟に載せてくれたマルコさんは、ぼくの島の習わしに詳しいようだった。きっと供物であることも知っていたのだろう。博識な人だ。
 ハルタは一冊、二冊と絵本をめくり、三冊目の裏表紙を見たところでその手を止めた。指先がなぞるのは拙い文字で書かれた名前。持ち主の名前が全て違うことに気づいたらしい。そして、その中に“シーポート・ロッコ”の名前はない。
 ここから導き出された答えは。

「ロッコは、友だちがたくさんいたんだな……」
『そうなんだけど、そうじゃない。まだぼくが小さい子供だと思ってる』
『実際のところは?』
『妹の友だちにぼくが読み聞かせしてあげていた本なんです。全部』

 人魚が手を振っている表紙の絵本は、リプルのお気に入りだった。花冠のお姫さまは妹、アクアのお気に入り。剣を持ち、海王類に挑む男の子はマールの。ウサギやリスに囲まれた絵本は、ブルーがいつもぬいぐるみと一緒に持ってきた。

『妹の友だちで、ぼくの友だち。みんなあんなに大切にしていたのに、ぼくにくれたんだなあ……』
『それだけみんな、ロッコが好きだったということさ』

 リッドさんの手がぼくの頭を数度撫で、そのまま肩へと引き寄せる。みんなはぼくが寂しくないようにと、ぬいぐるみもたくさんくれた。そして、偉大なる母はこの船へとぼくを運んでくれた。
 一通り絵本を調べ終えたハルタは、取り出したときよりも慎重に、もとの木箱へと戻していった。最後に蓋が閉められ、かわいらしい巾着から取り出した“ぼく”を箱の上へ置く。

「ロッコ。おれはお前の顔も年も、なんにも知らない。だけど、ロッコがイイ奴だってことは、なんとなく分かった」

 言葉の代わりに、リッドさんはぼくの頭を優しく叩いた。イイ奴かどうかは分からないけれど、イイ友だちに恵まれたことは確かだ。それだけは自信を持って言える。
 ハルタは木箱の方を向いてしまっているので、ぼくたちにはその背中しか見えない。決して大きくはない。まだまだ成長途中の細い体。なのに、死んでしまったぼくと同じ年の彼が、その背が、とても広く見えたのはなぜだろう。

「おれが、ロッコに世界を見せてあげる」

 答えはきっと、これから少しずつ見つけていく。



小さな誓い

←backnext→