帆柱の住人たち


 きょろり、と視線を動かす。右は海、左も海。正面には大樹と見紛うメインマストがそびえ立ち、風を受け、海を切るように走っている。

『船、だ』

 初めて乗った。
 “ぼく”を乗せた小舟がこの巨大な船に引き揚げられたときは驚いたけれど、“ハルタ”と呼ばれた彼が言い出したことにはもっと驚いた。彼は今、“ぼく”を持ってお父さんのところへ行っている。
 小舟は少し前に、花と一本の酒瓶だけを載せて海へと返されてしまった。残りの一本はハルタのお父さんへ。もう一本は、小舟を見つけた“隊長”の懐へ。絵本やぬいぐるみは箱に戻され、ハルタの帰りを待っている。小舟と一緒に海へ返されなくてよかった。あれはみんなの宝物だったから。

 病の抜けた体は軽い。甲板の端から端まで歩いても、息は切れない。船の縁に手をかけ、思い切って体を押し上げる。ああ、すごい。両腕だけで全身を支えられるなんて。
 眼下に広がる母は濃い青。船が水を掻き分け、白い波が尾を引いている。空と海、どちらがどちらの青を映しているのだろうか。世界が、ぼくの知らないことで満ちている。

 ぼくは七日前に死んだ。
 生まれつき体が弱く、二十まで生きられるかどうかとお医者様には言われていた。結果として、大人になることは叶わなかった。
 アクアは泣き止んでくれただろうか。いつも笑っていた妹。小舟が沖まで運ばれる間、あの子の泣き声が止むことはなかった。お父さんとお母さんも、早く笑えるようになってほしいのだけど。

 だめだ。下を向いていると気持ちまで落ち込んでしまう。顔を上げ、男たちが走り回る甲板を見る。どの顔もなかなかに人相が悪く、体躯は屈強。偉大なる母を渡る船乗りは、これくらいでないといけないのかもしれない。
 だけど、走り回る誰もがぼくを見ない。いや、見えない。当然だ。ぼくは死んでいて、すでに体はないのだから。

『おや、新入かね? 少年よ』

 ……なのに、一人のおじいさんがこちらへ向けて声をかけてきた。一瞬驚いてしまったが、きっと後ろに誰かいるのだろう。おじいさんから視線を外し、一歩分横へずれる。が、なぜか彼の視線は離れない。

『ははは、君のことだよ少年。肌の色が白く、柔らかそうなシルバーブロンドの君だ』
『ぼくが、見えるんですか……?』

 自身を指差すと、おじいさんはぼくの手を掴んではっきりと頷いた。そのまま、ぼくの人差し指がおじいさんへと向けられる。
 見えるうえに触れるなんて、

『なあに、わしも少年と同じというだけさ』

 茶目っ気たっぷりなウインクがひとつ。おじいさんはその場でふわりと宙に浮き、まるで海の中を泳ぐように一回転して見せた。
 ああ、この船に来てから驚いてばかりだ。彼もぼくと同じ幽霊で、そして幽霊にはこんなこともできるなんて。
 穏やかに笑うおじいさんは“リッド”と名乗った。『気軽に“リッドさん”と呼んでくれ』と言っていたので、そう呼ばせてもらうことにする。
 リッドさん曰く、ここには他にも幽霊がいるらしい。

『ところで、君は高い所は平気かね?』
『ぼくの部屋……二階より高いところへは行ったことがなので、分からないんですが』
『そうか。まあ、上に行かないことには話が始まらないのでね。少々目をつぶっていてくれたまえ』

 言われるがまま、目を閉じる。腰に腕が回されたと思ったら強く引き寄せられ、思わずたたらを踏んだ。それでもリッドさんの腕は離れない。細いなあと笑う声が降って、気恥ずかしさから顎を引く。
 体型は死んだときのままだ。ほとんどベッドで過ごしていた体は、健康な人間よりずっと細い。

『そうむくれてくれるな。今回はサービスにしてあげるのだから』

 いったい何をサービスにしてくれるのだろう。問うより先に、爪先が甲板から離れた。
 う、そ。

『ま、ま、待ってください……! 足! 足が……!』
『ふっははは! いい反応だ少年!』
『笑いごとじゃ、う、わああ……』

 目をつぶったままでも分かる浮遊感。幽霊に重さはないのか、重力に引っ張られる感覚はない。それでも怖いものは怖い。初めて知った。高い所はこんなにも怖い。
 しがみついた先、リッドさんは震えるほど笑っているが、今にも力が抜けてうっかり、なんてことになりはしないだろうか。想像して、体が震える。もちろんリッドさんの震えとは違う意味で。

『少年が若い娘さんだったら、役得だったんだがねえ』

 ぼくにそんなことを言われても困る。文句の代わりに口をへの字に曲げた。

『まあ冗談はこのくらいにしておこう。さ、目を開けてごらん』

 掴まれた右手と腰が引かれ、爪先が足場を捉える。棒のように丸みを帯びていて、とてもじゃないがリッドさんの手を離せない。ぼくはしがみついたまま、恐る恐る瞼を押し上げた。

 瞬間、世界が変わった。
 帆やロープがひしめくマストの上。風が唸り声をあげ、巨大船を押し進める。陽の光は帆を透かし、隣の帆にロープの影を映す。白に走る無数の黒線には、奇妙な美しさがあった。
 ぼくに体があったなら、きっと風にあおられてあっという間に飛ばされてしまっただろう。耳と目で感じる風は、巨大船を動かすだけの強さがある。

 しかし何より、果てなく広がる母がただひたすらに、美しかった。

 見とれるぼくを現実に引き戻したのは、リッドさんの『仲間を紹介しよう』という声だ。言われて気づいたが、マストに腰かける男が二人いる。

『まず、君と一番歳の近そうなポーカからいこうか。彼は、』
『享年二十五歳。幽霊歴は一年。死因は病死』
『だそうだ。正確には水死なんだが……まあそれは置いておこう。ポーカは童顔を指摘すると機嫌が悪くなる。気をつけたまえ』

 ぼくより七つ上。リッドさんが童顔と称したとおり、たしかに歳より若く見える。ぺこりと頭を下げると、軽く手を挙げて応えてくれた。意外といい人なのかもしれない。

『お次はインゼル。あいつは元二番隊隊長でね、死因は失血死。幽霊歴は二年だ。享年は……たしか四十前後だったかな』

 インゼルさんの横顔は憮然としたまま。視線ひとつこちらには向けてくれない。
 “二番隊隊長”がどういうものかは分からないが、隊長とつくからにはきっと強い人だったのだろう。その背中は広く、腕はぼくの腿より太いほどだ。
 二人の紹介を終えたリッドさんはぼくの肩に手を置き、少しだけ体を離した。

『そしてわしがリッドさん。陸で死んだが甥っ子どもが気がかりで、ついこの船へ舞い戻ってしまったよ。ちなみに、幽霊歴四年のベテランだ』

 彼はぼくより背が高い。自然、見上げるかたちになり、雲の白さに目を細めた。そして、リッドさんの向こう側に見えた黒い影に、一度は細めた目を大きく見開く。

『ようこそ。白ひげ海賊団マスト支部へ』

 不敵に笑う、海賊旗。
 リッドさんは、はためくそれと同じ笑みを浮かべた。



帆柱の住人たち

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