白い鯨にのった日


 その日はなんでもない日だった。

 船から見て左側から陽が昇り、水平線から夜が溶け始める。
 その日はなんでもない日で、誰かの誕生日だったかもしれないし、誰かの命日だったかもしれない。ただ、隊長も、下っ端も、コックも、ナースも、いつもと同じ何が起こるか分からない一日になると思っていた。

「あ? ありゃあ……小舟かあ?」

 少し違う始まり方をしたのは、マストの天辺で不寝番をしていた男だろうか。望遠鏡を伸ばし、暗い波間に漂う何かを見る。右側の海はまだ夜の中だ。巨大船の影に隠れてしまい、正体がいまいち掴めない。
 男は傍らで眠りこけていた少年を小突くと、いくつか伝言を頼んで見張り台から追い出した。もう一度、望遠鏡を覗く。小舟には帆もオールもない。つまり、それは“怪しい舟”だ。

「どっかの馬鹿な海賊か、はたまた海兵か。ただの遭難者ってオチは、面白くねえなあ」

 わずかに残っていた酒をあおった男は、少し間を置いて口角を引き上げた。酒で湿らせた唇を舐め、不自然なまでに静かな影を見つめる。不敵な笑み。しかし、驕りはない。彼はただ、なにも起こらない見張りに飽きただけ。

「たいちょー! マルコ隊長呼んで来たー!」

 甲板から上がる声に、男が顔を出す。少年は下で大きく手を振り、反対の手で“マルコ隊長”の腕を持ち上げた。身長に差があるので、あまり高くは上がっていないが。

「おーう、ご苦労! そしたら次は五、六人適当に起こしてボートの用意しろ!! おら駆け足ー!!」
「うへえ、おれもう眠いんだけど……」

 見張り台まで届かない声で文句を言いながら、少年が船内へと戻っていく。残されたマルコはもとより眠た気な目をさらに細めた。噛み殺し切れなかった欠伸がその眠気を物語る。
 しかし、男はそんなことなどお構いなし。急かす声を絶えず降らせている。仕方なくその身に青い炎を走らせ、なおもせっつく男のもとへと飛び上がった。

「まったく、人使いが荒いねい」

 見張り台の縁に鉤爪をひっかけ、溜め息混じりに男を見やる。それとなく文句をつけられた男は、空の酒瓶で不死鳥の胸を小突いた。

「うるせえ、おれだって眠いんだよ。ハルタが戻ったらボートで偵察に行かせる。お前は近海に怪しい船がいねえか見てこい」
「了解」

 眠いのはお互いさま。マルコは文句の代わりに肩を竦め、頷くより先に青い炎を散らして船を離れた。
 小舟の確認に、近海の偵察。“敵”を想定した指示を出しはしたものの、それらがあまり意味をなさないだろうと男は感じていた。根拠はない。ただの勘だ。しかし、その勘がそうそう外れないことを、男とこの船の長は知っている。
 そして、結果はやはり後からついてきた。
 ハルタと新たに叩き起こされた男たちによって引き揚げられた小舟。人はおらず、あるのは小舟いっぱいに敷き詰められた花と、酒瓶が三本に木箱が三つだけだ。花はすでに萎れて茶色く変色しているし、酒瓶のラベルは剥げかけている。それなりの間、風雨に晒されていた証拠だろう。

「あんま見たことない酒っスね。うめえのかな」
「ここらは凪の帯に近いからなあ。外に出回ってねえ酒もあるだろうよ」
「おい、こっちの木箱にゃ絵本しか入ってねえぞ」
「絵本ん?」
「こっちはぬいぐるみだな」
「おいおい、子供の死体でも乗ってたってのか?」
「ガキは酒飲まねえだろ」

 ハルタに叩き起こされた男の一人が、大袈裟に肩を竦める。波風に浚われたであろう花の分を差し引いても、小舟に人ひとりが乗れるスペースはなかった。大人にしろ子供にしろ、死体が乗っていた可能性は低い。

「で、ハルタはさっきから何やってんだ」
「これ。留め具が錆びててなかなか開かなくて」

 手のひらに収まる程度の小さな木箱。振ると固いものがぶつかるような音がする。一人がそれを受け取り、ナイフの切っ先で留め具を弾く。中から現れたのは、宝石でも貴金属でもない。ただの“石”だった。
 こんなものを後生大事に箱なんかに入れて、と呆れる男たち。その興味はすぐに酒へと移った。だが、ハルタだけは石から視線を逸らせずにいた。なぜこんなものを後生大事に箱に入れたのか。その理由を探している。
 小箱の中身は本当に石だけで、紙や布などの緩衝材もない。河原に落ちていそうな、丸みを帯びた石。色も形も至って普通。それをころりと手の中で転がして、ハルタは見つけた。

「シーポート・ロッコ……? ねえ! これ、なんか名前っぽいもの書いてあるんだけど!」
「そりゃあ“魂石”だよい」
「うお!? マルコ!?」

 青い炎を散らす鳥が、船の欄干を掴んだ。偵察帰りのマルコだ。一度休ませた羽をもう一度広げ、今度は酒瓶を眺める男の輪へと入る。鳥から人へと形を変えたマルコは、酒瓶の裏側のラベルを視線でなぞった。次に見たのは萎れた花でいっぱいの小舟、そしてハルタの手元。最後に、マルコを偵察へと出した“隊長”を睨んだ。

「あんた、何もないと分かっていておれを出したな?」
「念には念をって言うだろお? 勘だけで海賊はやっていけねえよ」
「はあ……。まあいいよい」

 にやりと意地悪く笑う隊長が、まともに取り合ってくれるとは思えない。早々に諦めたマルコは、不思議そうな顔で自分を見上げるハルタと目を合わせた。

「なあマルコ、“タマイシ”って何?」
「死人の魂を移した石」
「しび、」

 “死人”の言葉にハルタは石から手を離した。手元から離れた石が甲板へと吸い込まれる。甲板と石とのわずかな隙間、腕を滑り込ませたのは誰だったか。どうにか寸前にそれを受け止め、一拍置いてあちこちから怒声があがった。

「ばっ……かやろう!! おめえ落とすなよハルタァ!!」
「そうだぞ! 幽霊に祟られるなんざ御免だからな!」

 船乗りは意外と信心深い。そこまで慌てなくとも、と呆れたのはマルコとハルタだ。隊長は石ひとつに慌てふためく男たちを見て、腹を抱えて笑っている。
 笑い転げる隊長は放っておくとして。マルコは落ちかけた石を取り上げ、ハルタが持つ箱へと戻した。
 シーポート・ロッコ。それがこの小舟の主。そして、その人物はすでに亡くなっている。

「その酒を作ってる島の風習だよい。死んだ人間の体は土に埋めて、魂はこういう石っころに移して海に流すっていうな」
「じゃあこの石は墓みたいなもんってこと?」
「海に沈むのが前提だが……まあそんなもんだろ」

 顔も声も歳も知らない誰かの魂が、手の中にある。子供だろうか、大人だろうか。小舟を埋め尽くす花は、シーポート・ロッコがたくさんの人に愛されていたことを物語っている。
 今度は慎重に、箱から石を取り出した。小さな石に丁寧に刻まれた文字。親指の腹で撫でて、陽にかざす。この巨大船に拾われたのも何かの縁。海がもたらした巡り合わせに違いない。
 横でマルコが島の習わしについて語るのを聞きながら、ハルタはひとつ、頷いた。

「ねえ、この石のことなんだけどさ、」



白い鯨にのった日

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