あなたをおもう



佐助は三日間の滞在の後、甲賀の里へ帰ったらしい。らしい、というのはあの夜以降、俺が佐助に会うことはなく、このことも要蔵殿の口から聞かされて知ったからだ。姉上には縁があればまた会えると言ったが、佐助はもう俺になど会いたくはないだろう。そう考えるだけで、胸にはまたぽっかりと穴が空いたような虚しさがあった。

時が経てば忘れられるのではと思った。淡い期待。端から期待していないに等しかったが、胸の穴を誤魔化すように鍛練に励み、瞼の裏に焼き付いた橙色を消そうと躍起になった。前のように床に伏せるようなことはない。一度は会うことが叶ったからだろうか。

…結局、幾月経てども佐助を忘れるられるわけがなく、俺は違う“想い”を胸に抱いて生きることにした。





「ふむ…なるほど。若は何かを決意されたと見える」


日課となった稽古の最中、善兵衛殿は構えを解いて値踏みするように俺の顔を眺めながら言った。俺もゆっくりと木刀を下ろし、善兵衛殿の次の言葉を待つ。


「長いことどこか危うい雰囲気がありましたが、ここ最近はそれが鳴りを潜めたと申しますか…」
「そうですか?」
「ええ。毎日若の太刀筋を見ておりましたから間違いありませぬ」


それは良い変化、なのだろう。現に善兵衛殿の表情は柔らかく、どこかホッとしているようにも見える。

夏はとうに過ぎた。冬はすぐそこまで来ている。年を越えれば俺は九つになり、そうすれば佐助もひとつ、年を取る。


「…諦めて、みたのです」
「諦める、とは?」
「忘れることを…忘れる覚悟を決めることを、諦めたのです。その代わりに“忘れない覚悟”を決めました」


風が吹く。汗ばんだ髪が流れて、首筋にひんやりとした風が当たった。佐助の髪によく似た、焔色の山々。やがて葉を散らし、辺りには雪が積もり始める。佐助が幸村に仕え始めるまで、あとどれくらいの時間が残されているのだろうか。ついそんなことを考えてしまうが、以前のような焦りはなかった。

会えない。忘れられない。ならば、忘れずにいよう。出してしまえば答えはどこまでも単純で、今まで悩んでいた自分が酷く滑稽に思える。


「戦場で佐助に会ったとして、この目に焼き付けることなく死んでしまってはあんまりですから。もっともっと、強くなります」
「…まあ、理由がどうであれ男児が強さを求めるは良きことかと存じます」
「いつか善兵衛殿も負かしてご覧にいれましょう」
「またそのような減らず口を…」


呆れた、というよりはどこかうんざりしたような顔で肩を落とす善兵衛殿。意地悪く吊り上げてみせた口元もすぐに緩み、子供らしい笑い声が口から漏れる。

わざとこんなことを言ってはみるが、俺は一生かけても善兵衛殿には勝てないと思っている。善兵衛殿はそれを知っているだろうか。人を見ることに長けたこの人は、自分を見る目には酷く疎い。きっと、俺が言葉にするまで気付かないのだろう。


「若…何がそんなに可笑しいんですか」
「いえ。ただ、いつ気付くかなあと」
「何か悪さでもしましたか?なれば某は殿に告げ口…いや、ご報告を」
「分からないのに何を報告すると言うのですか…」


中途半端に体の向きを変えたまま、こちらをじと目で睨む善兵衛殿を見て溜め息をつき、木刀を握り直す。いずれきちんと、言葉にしてお伝えします。だから今しばらく、子供の意地にお付き合いください。


佐助には、俺にとっての善兵衛殿や茂時殿、あるいは父上や兄上のような師となる存在があるのだろうか。ただただ必要なことを教わるだけでなく、人の道を生きる上での教えを請うような、そんな存在が。

あればいいと俺などが願うのは、とてもおこがましいことなのかもしれない。しかし願わずにはいられなかった。初めて見た佐助の目には、俺の記憶の中にあったような人の光がどこにもなかったから。


善兵衛殿の稽古を終えた後、俺は小さく要蔵殿の名前を呼んだ。要蔵殿にも折を見て佐助のことを話した。相槌を打つこともせず聞き入ってくれた要蔵殿は、最後に自分で力になれることがあったら言ってくれとおっしゃった。以来、外へ出る要蔵殿に佐助の噂を聞いたら教えてくれるよう頼んでいる。


「何か御用でしょうか」
「急にお呼び立てして申し訳ありません。ひとつ、お聞きしたいことがあったので…」


それとなく視線を回して人がいないことを確認する。これはあまり聞かれたい話ではなかった。片膝を立てて頭を垂れる要蔵殿の耳元に近寄り、小さな声で問いかける。


「信濃上田、真田氏に子息はおりますか?」
「齢ふたつの源三郎、並びに齢ひとつの弁丸という男子が」


その言葉に息を飲んだ。恐らく、源三郎と弁丸のどちらかが幸村だ。しかし齢ひとつとふたつ…どちらも生まれたばかりではないか。いったいいつ、佐助は幸村に仕えることになるのか…。

佐助はまだ、“幸村”に会えない。俺は佐助の目に人の色が灯る日が来るのか、不安になった。



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