あかいなみだ



茂時殿は幼い俺たちにも分かりやすいよう、兵法を身近なものに例えて教えてくれた。猫を塀に追い詰めるとどう逃げるか、それを捕まえるにはどうすればいいか。桜花丸はよく敷地内に迷い込んだ猫を追いかけて遊んでいたから“一人で捕まえるのは難しい”と答えた。


「ならばどうすれば捕まえられますか?」
「んー…あにうえに手伝ってもらう」
「それはどのように」
「待ち伏せしてもらう!」
「そう、謂わばそれが伏兵戦術。兵法の基本です」


などなど。猫を追いつめる場所、木の上に逃げられたら、逆に爪を立てられたら。あらゆる状況を想定して猫を捕まえる。置き換えると、それらは相手の得手となる地理、追い詰められた者の心境、となる。俺は猫ひとつでここまで例えられるのかと驚いた。


「して、百合丸様はどのように捕まえられますか?」


桜花丸との話し合いが一段落つくと、今度は俺の方に話を振られた。

足が早く、逃げ回る猫。自分より何倍も大きな生き物に追い掛けられてさぞや怯えていることだろう。もし俺だったなら…。


「まずは餌付けから、ですかね」


捕まえたところで猫に抵抗されるのは目に見えている。それならば極力穏便に、平和的な解決策を。時間はかかるだろうが、これも猫を捕まえる手段のひとつにはなる。

茂時殿は目を見開いたのち、“それもまた立派な軍略”と言って笑ってくれた。


桜花丸は茂時殿の指南が気に入ったらしく、これ以後手習いを始めるようになった。元々体を動かすことの方が好きだった桜花丸は、城の中を駆け回りながら様々なものを見ていたようだ。茂時殿の語る兵法を“蟻の行列に石を置くとそうなる”とか“立てかけてあった鍬を倒したらそうなった”と、身近なものに例えてあっという間に吸収していく。これには流石の父上も驚いていた。


そうして兵法を習い、武芸を習い、たまに桜花丸と遊んで過ごすこと四日。

その日はとうとうやって来た。


「百合丸。それが終わったら部屋へ来い。要蔵が戻ったぞ」


父上が俺に声を掛けたのは善兵衛殿に稽古をつけてもらっている時だった。落とした手拭いを善兵衛殿が慌てて拾う。汗を吸った手拭いは土で汚れ、それはすぐに女中の手へと渡された。


「若、今日の稽古はここまでといたしましょう」
「…忝い」


定まらない視点で礼をし、道着も着替えぬままに廊下を進む。早く早くと心臓が騒ぐ。衣擦れの音がやけに煩い。部屋の前に着いて大襖に手を掛けたものの、開く勇気が出なかった。この向こうに佐助がいるのだろうか。俺の知らない、幸村にも会っていない佐助が。


「どうした百合丸、入らんのか?」


気配で気付いたのか、部屋の中から父上の声が掛かった。あれほど焦がれていたんだ。ここで怖じ気づいてどうする。俺は胸に手を当て、大きく息を吸って襖を開いた。


「失礼いたします」


平伏した状態からゆっくりと顔を上げる。見慣れた要蔵殿の衣、そしてその隣にある小さな体。世界が恐ろしく緩やかに流れていく。見たいのに、見るのが怖い。見てもいいのだろうか。その姿を。


「百合丸様、こちらが件の猿飛佐助にございます」


焔によく似た、橙色の髪。
表情のない、幼い顔立ち。

ようやく視界にその姿を収めた時、俺はどうしてか無性に泣きたくなった。胸の中に感情が渦巻いて、自分がどういう気持ちなのかすら分からない。世界が一気に滲んでいく。しかし瞬きができない。それは恐らく、刹那ほどの間。

止まっていた時間は、人が叩き付けられるような音によって再び動き始めた。


「佐助!貴様今何をするつもりだった!!」
「離せ。あの目が気に入らない。すぐにでも抉り出してやる…」


要蔵殿に俯せに倒され、両腕を背中に押さえ付けられる子供。垂れた橙色の髪の間からぎらぎらと光る双眸が俺を射抜く。暴れてはいるが、要蔵殿を振り解くことはできないだろう。


「百合丸、お前は下がっていろ」
「嫌です」
「百合丸様!なりませぬ!」


一歩、また一歩。床板の上で足を滑らせる。佐助の前に屈み、目配せで要蔵殿に手を離すよう促した。父上にも、手出しは無用と目だけで語り掛ける。

案の定、要蔵殿の手が緩むと同時に苦無が一閃を切った。鼻の頭に熱が走る。


「それ以上俺に近付くな…」
「断る」
「目玉を抉られないと分からないのか」
「抉られても、きっと分からない」


今度は喉元に真っ直ぐ、苦無の切っ先が向けられた。恐怖心はない。ただ、俺は、


「佐助に会えて、嬉しいんだ」


堪えきれなかった涙が、紅と溶けて零れ落ちた。



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前肢