まなぶこと



「折角戻られたばかりなのに申し訳ありません…」
「百合丸様が気に病むことは何もありませぬ。どうか、お顔を上げてください」


一夜明けた今日、父上がしたためた契約と佐助に関する書状を持って要蔵殿は再び甲賀へと向かう。俺の我が儘のせいで蜻蛉返りする羽目になってしまったことが申し訳ない。要蔵殿が甲賀へと赴いたのは新しい忍を雇うためで、どちらにせよ近い内に戻らなければならなかったらしいが…ここまで急かす形になったのは俺のせいだ。頭を下げずにはいられなかった。


「百合丸様。ひとつ、私めの言葉をお聞きください」
「はい」
「猿飛佐助は今、人から外れたところにおります。私が連れて戻った折にはくれぐれも…ご油断めされぬよう」


人から外れたとは、油断するなとは、どういう意味か。問い掛けるよりも早く、要蔵殿は姿を消していた。


俺が会う猿飛佐助は、まだ真田幸村に出会っていない猿飛佐助だ。それがどれほどの意味を持つのか、しっかりと考えなければならない。俺は彼に会って何を思うのだろうか。彼は俺に会って何を思うのだろうか。会って何をする。ああ、武田信玄公の元を訪ねてみるよう勧めるのもいいかもしれない。


「俺は馬鹿か…」


そんなことできないと分かっているのに、言い訳じみた言葉ばかりが湧いてくる。俺にできることと言ったら精々戦場で佐助に殺されないよう鍛えるだけだ。それ以下は、耐えられない。それ以上は、あってはならない。

きつめに拳を握り、足早にその場を離れた。今日は兵法の教えを請うことになっている。善兵衛殿にはまだ早いと笑われてしまったが、戦に関することは少しでも頭に入れておきたかった。数多溢れる想いはきっと俺の力になる。




「あー!みぃつけた!」
「おっと、桜花丸かい?」
「あにうえ!桜花丸とおにごとしよう!」


部屋へ向かって廊下を歩いていると、不意に背中に大きな衝撃が入った。この元気な声は弟、桜花丸のものだ。振り返れば満面の笑みでこちらを見上げる桜花丸がおり、眉間に寄った皺も自然と解れていった。


「桜花丸、兄はこれから勉強をしなければならないんだ。それが終わってからでもいいかい?」
「えー…いやだ!あにうえとずっとあそんでない!」
「たしかにそうだね…」


床に伏せている間はもちろん、その後もあまり長時間動くことができず桜花丸とも遊べていなかった。最近では稽古も再開させてしまったし、遊ぶ時間はますます減るばかり。悲しそうな顔で見上げてくる桜花丸を見ていると心が揺らいでしまう…。


「あにうえ…だめ?」
「だめじゃない。…あ、いや…そうだ!桜花丸、兄の勉強を手伝ってくれないか?俺も桜花丸と遊びたいが、それにはまず勉強を終わらせなければならないんだ」
「うん!あにうえのお手伝いする!」


つい桜花丸の目に負けて了承してしまったが、この際だ、勉強嫌いな弟を巻き込むのもいいだろう。


「…というわけがありまして」
「なるほど。たしかに桜花丸様は遊びたい年頃。どうにか手習いをさせたいと行貞様もおっしゃっていたことですし…いいでしょう。不肖未熟な某ではありますが、お二方に指南させていただきます」
「よろしくお願いいたします」
「おねがいします!」


俺が頭を下げると桜花丸も真似をして頭を下げた。茂時殿の表情も柔らかい。学びの場に桜花丸を連れ込んだことを咎められるやもと思ったが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。


「それではこれから教えを説かせていただくわけですが、ひとつだけ、肝に命じていただきたいことがあります」


茂時殿のまとう空気が、平時のそれから戦の最中のものへと変わった。緩んでいた目元は吊り上がり、その面立ちは正しく猛将。桜花丸だけでなく、俺の肩もびくりと跳ねた。

茂時殿は俺と桜花丸の目を交互に見据えて、静かに告げる。


「物事を型にはめて考えてはなりませぬ。万事は流水の如く姿を変えます。どうか、定石に囚われぬようお心掛けください」


陣形など、一度動き出せば容易く形を変えていく。数多ある兵法も言ってしまえば過去のもの。思考を止めてはならない。それは気付かぬ間に、身を滅ぼす毒となる。


「この百合丸、肝に命じておきます」


守るための矛が、守るべきものを傷付けることなどないように。隣で笑う桜花丸を見て、強く思った。



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前肢