パルフューム [ 57/143 ]
ふわり。
寝着をまとったシエラがベッドに乗り上げたそのとき、甘い香りが鼻腔をくすぐった。花の香りかと思ったが、この部屋に飾っていた花は、今朝テュールが寝ぼけて食べてしまったばかりだ。
気のせいかと首を傾げたが、甘いそれは再び空気を塗り変える。寝着の裾から、横になったシエラの華奢な足首が覗いていた。
珍しくまだ眠くないのか、うつ伏せになって本を読んでいる。ばたばたと子供のように足をばたつかせるので、注意しようかと近づいたときだった。
「……もしかして、シエラか?」
「うん?」
「香水でもつけたのか? なんだか甘い香りがするから」
シエラが動くたびに、ふわりふわりと甘い香りが漂う。彼女にしては珍しい、甘くまろやかな香りだった。
シエラはしばらくきょとんとしていたが、すぐに猫のように目を細めてくんくんと鼻をひくつかせて己の匂いを嗅ぎ始めた。「臭うか?」探るような目が、どこか愛らしい。
「いや、いい匂いだよ」
ベッドサイドに腰掛けて、さらさらと流れる蒼い髪を撫でつける。そのたびに甘く誘うような香りが流れてくるので、見ず知らずの女性と向き合っているような気がして少しだけ落ち着かなかった。
エルクディアの手を振り払うでもなく、甘受したままシエラは本に目を落とす。文字を追う金の双眸は、心なしかいつもよりも穏やかだ。
「ユーリにもらった」
「え? ああ、香水をか?」
「そこのテーブルに置いてある。興味ないと言ったんだが、どうしてもとうるさくて。アイツの押しつけがましさはなんとかならないのか」
ページを捲りながら唇を尖らせるので、エルクディアは思わず吹き出した。ずれた指先が露わになった首筋に触れる。
意識して手を引いたのは自分だけで、シエラは気にした風もなく文字を追い続けていた。
「なんだかんだで強引だからなぁ、ユーリは。それで、どうしてつける気になったんだ?」
「これは、ラヴァリルが無理矢理……」
なんでも、風呂から上がった途端、ユーリから話を聞いていたラヴァリルが香水瓶を片手に突進してきたらしい。驚いている間に身体を拭われ、あっという間にしゅっしゅと吹きかけられたのだとか。
ラヴァリルとユーリが手を組むとろくなことがない。呆れて吐いた溜息は、二人ほぼ同時だった。
「腰と足首につけられたから、自分ではほとんど分からないんだが……。くさくないなら、いい」
ぱたぱたと、シエラが子供のように足を動かす。
白い足首を無意識に視線が追っていた。「なぜこんなところにつけたんだか」分からないと息を吐くシエラの髪を撫で、エルクディアは思い出してしまった言葉に頭痛を覚えた。
匂いの元は腰と足首だという。甘い香水をつけた彼女は、きっとなにも知らないだろう。けれど、ユーリとラヴァリルは違う。
確実に、「知っていて」やっている。
「……なあ、シエラ」
「んー? なんだ、今いいところだから――」
「――香水って、キスしてほしいところにつけるって知ってるか?」
シエラの言葉を遮るようにして告げた台詞は、思いの外低い声音で彼女の耳に届いたらしい。次のページを捲ろうとしていた指先が、中途半端に制止する。
ゆっくりとこちらに向けられた眼差しは、ひどく硬質で――けれど、ほんの僅かに揺れていた。
くびれた腰、そこから繋がる身体の線をなぞるように視線を巡らし、最後は細い足首へと辿りついた。ぱたん。力なくベッドに沈んだそれには、甘い香りが染みついているのだろう。
お互いになにも言わない時間がしばし過ぎ、目が合ったところでシエラが爆発した。
「ッ、寄るな触るな見るな変態! もう二度と香水なんかつけるか!」
「いてっ! 痛いって! なにもしてないだろ!?」
「うるさいっ! さっさと帰れ!!」
「帰れもなにも、ここは俺の部屋でもあるだろ!」
「あの扉の向こうがお前の部屋だ、馬鹿!!」
分厚い本で容赦なく殴りかかってきたシエラの攻撃を腕で庇いつつ、エルクディアは彼女の赤く染まった頬を見て小さく笑った。
冷ややかに「それがどうした」と返すでもなく、「馬鹿を言うな」と返すでもなく、こうして眉を吊り上げて声を荒げ、感情を露わにして怒ってくる。それが少し嬉しかった。
打ち解けてきたのだと、思ってもいいだろうか。それとも、彼女本来の姿が見えてきたと言うべきか。
どうやって機嫌を取ろうかと策を巡らせつつ、エルクディアはふわふわと香る甘い空気で肺を満たした。
香水のついた足首の代わりに、殴りかかってくる腕を捕まえて引き寄せる。驚いた声が鼓膜を叩いたが、そんなものには聞こえないふりで、捕まえた手の甲に口づけた。
「たまにはいいと思うけどな、香水も」
――白くたおやかなその手に、忠誠を。
(おやおや、やっぱりむっつり発動だねぇ)
(足首にちゅーしないあたり、頑張ったんじゃないー?)