水面―短編― | ナノ
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 誰とも知れぬ者の手に渡る華奢な背中が、夕陽の中に消えていく。どんなときもベラリオをベラリオとして扱ってきた少女は、この手の外で女になるという。唐突に、大きく手足が震え始めた。分からない。これはなんだろう。歯の根が震え、獣の慟哭のようなものが漏れていく。
 それが喪失の恐怖だと気がついたときには、彼女の姿はもうどこにも見えなかった。


+ + +



 お前は王になるのよ。お前にはもっとふさわしい女がいるの。あんな女よりも、もっと、ずっと。いいこと、あれはきっと魔女になる。お前を利用し、食い漁り、そして破滅へと導く。あれはそういう女よ。だから、私が助けてあげたの。嬉しいでしょう。お前を守ってあげたのよ。悪い魔女はもういないわ。大丈夫、大丈夫よ、ベラリオ。大丈夫だから、だから。
 だからお前は、安心して王におなり――……。


 イデアの件を持ちかけると、ダフネは吐きそうなほどに甘ったるい猫撫で声でそう言い、ベラリオを抱き締めようとした。かっとなって突き飛ばしたところまでは覚えている。人語を忘れたかのように咆哮し、大きくなった身体を余すことなく用いて暴れ、ありとあらゆるものを投げつけ、蹴り、破壊した。止めに入った兵士らにも殴りかかり、何人かには重傷を負わせたらしい。
 あまりよく覚えていない。気がつけば眠っていたベラリオは、目を覚ますなりマルセルに無言で拳を振り下ろされた。食ってかかろうとした途端、屈強な兵士に阻まれてそれは叶わなかったけれど。
 なにか大切なものを失ったのだということに、そのとき初めて気がついた。手の中に必死に握り締めているつもりだった。当然のように、それは一生、自分のものだとばかり思っていた。ああ、なんて愚かな。自分で自分を殴りたい。噛み締めた唇から、鉄臭さが広がっていく。
 この手に収めたことなど、一度もなかったのだ。ただそこにあって、ベラリオはすぐ傍でそれを眺めているだけにすぎなかった。手にしているのだと錯覚するほど近くに、それはあった。

「……違う」

 まだ失ったわけじゃない。
 ぎらつく瞳を瞬かせ、ベラリオは手近な文官を脅しつけてレンツォの休みを聞き出した。弟だというのなら、姉の結婚式には休みを取って出席するだろう。震える声が吐いた彼の休日は、イデアが言っていた時期とちょうど重なっている。
 昏い思いが足元から全身を包み込む。――そうだ、まだチャンスはある。
 花が綻ぶあの笑みを。弾むようなあの声を。まっすぐに見つめる無垢なあの瞳を。それらすべてを、この手の中に。
 彼女が言ったのだ。「貴方の望むものをこの手に掴めますように」と。ならば掴んでみせよう。力づくでも。
 そうだ、それがいい。母だって言っていた。武を持ってすべてを膝下に跪かせろと。彼女は言った。強い人が好きだと。誰もがベラリオに力を望む。武を望む。
 ならば、応えてみせよう。

「くくっ、ははっ……、あはははははっ!!」

 薔薇の一輪、手折ることなどいとも容易いに違いない。


+ + +



 ホーリーの夜は、月が近い。
 今夜は糸のように細い三日月で、白露宮を照らす明かりも弱々しい。ベラリオはその晩、見張りの兵士の目を盗んで宮殿を抜け出し、昼間の内に外に繋ぎ止めておいた馬を駆って王都の外れにある神殿を目指した。
 鞭を打てば、夜の闇に馬がいななく。蹄の音が耳を穢し、荒い呼吸が星を揺らす。揺れるカンテラの明かりが不気味に影を伸ばし、それに怯えた野良猫や浮浪者がギャッと叫ぶ声を聞いた。辿り着いた神殿は、小さくみすぼらしいものだった。王都の中心にある立派なものとは違い、かろうじて手入れが施されているだけの建物に過ぎない。
 それもそのはずだ。この神殿は、結婚前夜の花嫁が神に祈りを捧げるためだけに造られたものなのだから。華美な装飾など微塵もなく、中には祈りの間と簡素な寝室しか設けられていないのだと聞いている。聖職者以外の男性は立ち入りが禁止されているから、ベラリオはもちろん中を訪れたこともない。そもそも、こんな場所には今まで縁がなかったから当然だ。
 草木を掻き分け、汗を拭って呼吸を整える。神殿から漏れ出る明かりはなく、ともすれば無人とも思えるほどだ。けれど、神殿の小さな門扉の前に一人の見張りが立っている。警備はたった一人。この程度、押さえるのはあまりにも容易い。
 腰に佩いた剣を鞘ごと抜き、ベラリオは静かに構えた。そして完全に息が整ったそのとき、足裏が地を蹴って長剣を振り抜いていた。虚をつかれた見張り番が、声を上げる間もなく倒れ込む。
 叫び出したくなる高揚感が湧き起こった。古ぼけた木の扉一枚を挟んだ向こうに、イデアがいる。彼女は粛々と祈りを捧げているのだろうか。くだらない。神になど祈ったところで、なんの役に立つというのだろう。
 剣を腰に戻し、ベラリオは戸を叩いた。二度、三度。強く叩くうちに、「はーい?」と寝ぼけたような声が返ってくる。明かりが灯り、足音が近くなって鍵の開く音がした。

「こんな時間にどうし、――って、ベラリオ殿下?」

 瞳を擦りながら扉を開けたイデアは、ベラリオを見るなりその瞳を丸くさせた。信じられないとでも言うように何度も瞬き、そしてベラリオの足元に転がっている見張り番の男を見て小さく悲鳴を上げる。
 その悲鳴を聞いた瞬間、腕が勝手に伸びていた。乱暴に引き寄せて抱き締めた身体からは、薬草湯にでも浸かったのか花と草の匂いがした。初めて、この腕の中に女を抱いた。どうすればいいかなんて分からないまま、ただ衝動的にそうしていた。
 しばらく呆然としていたイデアが、ゆっくりとベラリオの背を撫でてきた。騒ぎ立てる心臓をあやすかのような手つきに、どうしようもなく落ち着かない気持ちになる。


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