水面―短編― | ナノ
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「驚いた。妖精が降ってきたのかと思った」

 ――妖精は、常に光と共にある。


+La fata.+




 あれだけ降り続いていた雨が上がった。
 滂沱の涙を流していたディルートの町の頭上からは分厚い雲が散り、美しい色を取り戻した。どこまでも続く青空の下に、鮮やかな青い海が広がっている。
 高台から見下ろしたそれはとても綺麗だったけれど、海岸には流れ着いた木々やゴミが溜まっていて、景観を損なっていた。
 それもそうだ。
 つい先日まで、ディルートの水路はあちこちで氾濫していた。山は崩れ、川は溢れ、美しい町は一変して地獄に落とされた。淀んだ海から聞こえてくる恨みの歌を、ルチアははっきりとその耳で聴き、濁った海の中で嘆く人魚の姿を見た。
 ルタンシーンの怒りを買った呪いはシエラによって無事に解呪され、嘆きの雨も止んで、ディルートにはやっと平和が戻ってきた――そう思っていたのに、レンツォもシルディも相変わらず忙しそうにしていて、正直つまらない。
 シエラやライナもいろいろすることがあるようで、たまに声をかけてくれるけれど遊んでくれるわけではない。ましてやエルクディアに「遊んで」などと言えるわけもなく、ルチアはあまりの退屈さに一人唇を尖らせた。

 ホーテンやベラリオのところにいたときは、いつだって隣に兄のファウストがいた。ファウストは口数の多い方ではなかったけれど、どんな話でも最後まで聞いてくれるから退屈したことなどなかった。そもそもベラリオと離れる時間の方が短かったから、暇など感じたことはない。一人でいる間も、ルチアは毒や薬を作る仕事を任されていた。
 退屈なんて知らずに育ってきたルチアにとって、誰も相手にしてくれないこの日々は苦痛でしかない。
 せっかく大好きになったシエラも、あと二週間もしないうちにアスラナに帰ってしまうと聞いて、さらに面白くない気持ちが胸を満たした。

「ルチアちゃん、私と遊びますか?」

 名前も知らない親切な侍女が声をかけてくれたけれど、忙しそうなのは目に見えていたので、ルチアは小さく首を振った。「一人で遊ぶからへーきー」あからさまにほっとした様子で、侍女は小走りで城内を駆けていく。
 ホーテンとベラリオがいなくなって、そして、ルタンシーンの怒りによってディルートが荒れて。それがどうしてここまで忙しくなるのか、ルチアにはさっぱり分からなかった。
 暇によって頭が溶かされそうで、そうなっては堪らないと、ルチアはふかふかのベッドから勢いよく飛び降りた。

 ――誰も遊んでくれないなら、探検しちゃお。

 水路や海辺にはまだ近寄るなとレンツォにきつく言いつけられているから、行く場所は慎重に考えなければならない。市場に行ってもいいけれど無駄遣いはできないし、なにより大人達は商売よりも泥掻きや崩れた建物の修繕に忙しい。同じ年頃の子供達も大人達の手伝いに駆り出されているため、広場ではしゃぐ姿は期待できそうにない。
 だったらどうしよう。どこがいいだろう。お気に入りの半透明のショールを肩に羽織りながら、ルチアはディルートの町並みを脳裏に描いた。

「……そだ、森!」

 ロルケイト城からもそう遠くはないところに、小さな森がある。あそこなら海からも離れているし、水路だってない。レンツォの言いつけだって守っているし、なにより森の中を探検するのはとても楽しそうだ。
 そうと決まればさっそく出発だ。途端に顔を輝かせ、ルチアは部屋を飛び出した。擦れ違ったシエラが「どこに行くんだ?」と訊ねてきたので、「おさんぽ! 森に行くの!」と言い置いて城を出た。
 もしも探検に夢中になりすぎて帰るのが遅くなっても、誰かに伝えておけばきっとレンツォが迎えに来てくれる。久しぶりに弾む胸を抱えて馬を駆り、ルチアは小さな森を目指した。



 初めて訪れた小さな森は、中に入ると少しひんやりとした空気でルチアを迎え入れた。風が吹くたびにさわさわと木の葉が揺れ、涼しい音を立てている。優しい木漏れ日が湿った地面を照らし、ルチアの肌に光を落とした。
 ――きれい。腕に描かれた光の文様に、ほうっと息を吐く。
 ゆっくりと馬を進ませていくと、枝の上をなにかがよぎった。

 なんだろう。必死で目を凝らすが、特になにもない。ガサッと音を立てた方向に勢いよく首を巡らせると、そこには小さなリスが木の実を両手に抱えてこちらを見ていた。突然の来客に、向こうも驚いたのかもしれない。
 目が合ったような気がして、ルチアは「あっ!」と声を上げた。今度こそ本当に驚かせてしまったらしく、リスが木の実を落として枝を伝って逃げていく。

「だめ、待って! 待ってってば! ――ねえ、あなたはここで待ってて!」

 首を軽く叩いてお願いし、馬から飛び降りてリスに負けず劣らずの瞬発力で駆け出した。
 あれはよく見かける茶色のリスではなく、白に淡い水色の模様が入った珍しい水リスだ。連れて帰れば遊び相手になってくれるだろうか。シルディに頼めば籠を用意してくれるだろう。そんなことを思いながら、ルチアは必死に地を蹴った。
 一足飛びに飛び出た根を跨ぎ、幹を蹴って反対側の木の枝に手を伸ばす。一気に身体を持ち上げ、ルチアは危なげなく枝の上に立った。
 猿のように木々を渡り歩きながら、必死で逃げる水リスを同じく必死で追う。細い枝が剥き出しの肌を叩いても、木の厚い皮が手のひらを傷つけても、一切構うことなく追い続けた。
 枝がしなり、葉が揺れる。戸惑うように水リスがこちらを見た。



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