水面―短編― | ナノ
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「聞こえねーよ。なぁ?」
「もっと腹から声出せっての!」
「おくちついてまちゅか〜?」

 下品な笑声が回廊に響く。通りかかった誰もがベラリオに深々と頭を下げ、そしてそそくさとその場を離れていく。巻き込まれたくないという一心なのか、誰もこの若い文官を助けようとはしない。
 側近の一人が男の腹を蹴り上げたせいで、掴んでいた髪が数本千切れて手のひらに残った。ああ気持ち悪い。払い落とし、げほげほと咳を繰り返す男の背中に踵を落とす。ひぎゃっと鳴いて身体は容易く床に伏し、散らばっていた書類に鼻血と涎が落ちた。

「答えろ。俺は、誰だ?」
「ベ、ベラリオ・ラティエ様……、ホーリー王国が第二王子殿下にございます……! おゆ、お許しをっ……!!」
「んだよ、分かってんじゃねーか。知らねーなら教えてやろうかと思ったんだが、ま、そんならいーわ。――オイ、お前ら拾ってやれ」
「はーい」
「りょーかいっす〜」

 軍部に属する男達が、にやにやと笑いながら散らばった書類を集めていく。怯えながらも安堵の表情を垣間見せる文官に笑みを向け、ベラリオは回収された書類の束を受け取った。集められたのはぶちまけられたうちの半分ほどだったが、それでも十分な量だろう。
 見上げてくる文官に差し出してやる。震える手を伸ばしてきた男の目の前で、ベラリオは紙の束を一気に引き裂いた。安堵の表情が絶望へと一変する。――これだ。これが、見たかった。
 二つに裂いた紙を宙にばら撒く。ひらひらと落ちる白の中に、茫洋とした男の双眸が泳いでいた。

「そんじゃ、ま、頑張れよ」

 肩を叩く前から堪えきれない哄笑が零れていた。側近達は腹を抱えて笑っている。去り際、文官が悔しさに唇を噛むのが見えた。急ぎの書類だったのだろう。これを今から書き直すとなれば、徹夜で済むかどうかだ。下手をすれば、無能の烙印を押されて首を切られるだろう。
 ああ面白い。白露宮の窓から見上げた空は高く、青く澄み切っていた。白い柱に光が跳ねる。
 あんな文官が、どんな役に立つと言うのだろう。怯えて許しを請うだけの人間に、どれほどの価値があるというのだろう。
 腰に佩いた剣の重さがそれを嗤う。価値などない。これからは武力が物を言う時代だ。でなければホーリーは死ぬ。この国が生き延びるには、軍部の強化を図るより他にない。
 アスラナの援助で成り立つこの国は、このままだとやがてあの大国に飲み込まれるだろう。剣を取り、弓を構え、そうしてこの世界に君臨する。そうでなければ、ホーリーは「永世中立国」である意味がない。

 げらげらと他愛もない談笑をしつつ白露宮を練り歩いていたベラリオ達の前に、赤が現れた。
 きっちりと着込んだ白の文官服に、薔薇色の髪。薄い眼鏡からは細い鎖が垂れ、肌の上できらりと光っている。知性を湛えた涼しげな顔の口元に浮かんだほくろが印象的だ。本を片手に廊下を進んでいたその男は、この白露宮で知らぬ者はいないと言われている。
 顔を上げたレンツォがベラリオに気づき、表情一つ変えずに壁際に寄って道を譲り、礼を取った。そこに感情がないことなど知っている。彼は「仕方なく」そうしているだけで、今だって早く立ち去りたいと思っているに違いなかった。
 けれどそれは、他の者とは違う。巻き込まれたくない、怖い――そういった恐怖による感情から来るのではない。彼が立ち去りたい理由は、早く仕事を終えたいからだ。自分に与えられた役目をこなすため、「余計なこと」には構っていられないからだ。
 それが分かっているから、ベラリオはレンツォの前で足を止めた。
 年は、片手分と少し向こうの方が上だ。それでも身体つきはベラリオの方がしっかりしているし、上背もある。薔薇色の旋毛を見下ろして、「なぁ」と声をかけた。

「なんですか」
「なにしてんだ?」

 レンツォは分かりやすく溜息を吐き、顔を上げた。冷たい灰色の双眸が見上げてくる。そこに怯えの色はない。波紋一つない静かな水面のようなそれに、ぞくりと胸がざわめいた。
 
「見て分かりませんか? 仕事です。ベラリオ様はお散歩ですか? せいぜいお楽しみください。それでは」
「待てよ。――せっかくだし、一緒に楽しもうぜ」

 踵を返しかけた肩を力任せに壁に押し付け、かっちりと留められた襟を乱暴に乱して喉元を撫でれば、背後の側近達がどこか湿り気を帯びた笑声を零した。卑猥な言葉がレンツォを揶揄する。囃し立てる声と口笛が鼓膜を震わせるが、眼前の青年は打ち付けた背中の痛みにほんの僅かに眉根を寄せただけだった。
 衝撃でずれた眼鏡を戻そうともせず、彼は冷ややかにベラリオを見る。力を込めて指を引き下ろすと、ボタンが弾け飛んで鎖骨の下までが露わになった。ちらりと見える白い胸元は平らだが、そこにかかる薔薇色の髪がひどく扇情的だ。息を呑む音がいくつか聞こえた。そのまま手を差し入れ肌を撫でても、彼は身じろぎ一つしない。壁に押し付けて首筋に食らいついたが、慌てるどころか舌打ちが一つ放たれただけだった。

「あなたと違って私は忙しいんです。遊び相手をお探しでしたら、後ろの筋肉達磨――おっと失礼、逞しいお兄さん方にでも打診なさったらいかがですか」
「それじゃ面白くねーだろ? 俺はお前と遊びてぇんだよ」
「私にそのつもりはないと言っているんです。子守に割いている時間はありません。分かったら離しなさい」
「子守ねぇ……。だったら、オトナの対応っつーのを教えてくれよ、なぁ?」

 首筋をねっとりと舐め上げ、骨の硬い感触が伝わる腰を掴む。そこで初めて、腕の中の男が息を詰めた。側近達によってレンツォは完全に囲まれ、外側からではその姿は見えないのだろう。逃げるように早くなった足音が、背後をいくつも通り過ぎていく。彼らは閉じ込められているのがレンツォだと知れば、いったいどんな反応をするのだろう。
 澄ました顔に未だ焦りの色は見られない。その唇でも貪ってやろうかと顔を近づけた途端、ふいにベラリオの左側にいた側近の一人セルジオがぐおっと呻いて崩れ落ちた。
 一瞬なにが起こったのか分からなかったが、股間を押さえて蹲るセルジオの姿を見るに、どうやら持っていた本で殴打されたらしい。腕は封じていなかったのだから、当然と言えば当然か。
 呻く男を冷めた視線で見下ろして、レンツォは鼻で笑った。圧倒的不利な立場にいる状況で、彼はまるで優位であるかのように振る舞う。
 気高く咲き誇る薔薇。誰がそう言い始めたのだろう。癪だが、その表現は今のレンツォにぴたりとあてはまる。
 気を抜いて触れれば、その鋭い棘で傷つけられる。それが、薔薇だ。



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