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それは欠片の声となる *4




 水の落ちる音がする。
 風のそよぐ音がする。
 葉擦れが聞こえ、閉じた瞼の裏には木々の影さえ見えるのに、そこに色はない。

「おかえりなさいませ」

 凛とした声が鼓膜を打つ。柔らかく漂う香は、目にも鮮やかな朱の着物に焚き染められたものだろう。振り向かずとも、彼女がどんな顔をしているのかは想像がついた。夜も更けた頃合いだ。丁寧に梳られた髪は結われることなく、そのまま薄い背中に流されているに違いない。
 ゆっくりと視線をやれば、彼女は夜露を孕んだような瞳を瞬かせ、優雅に頭を下げた。着物の襟から覗くか細い首筋が、風に揺れる花に重なって見える。着物に咲く大輪の花は、美しく染まっていた。
 当たり前のように色を放つ花がここには咲いているのに、この世界に色はない。限られた小さな世界にだけ、色がある。失われた色。奪われた緑。この手の中には、なにもない。
 躊躇いがちに、小さな手が背中に触れた。咎めずにいれば、そのまま腕が脇の下を抜けて胸の前に回される。背に、柔らかな吐息が注ぎ込まれた。

「お久しぶりにお会いできて、とても嬉しく思います。お元気でしたでしょうか、お兄様」

 甘く色づいた声音を聞くのは本当に久しぶりだ。猫のように甘えて擦り寄ってくる姿は、外の世界を完全に隔てたこの場所でなければ見られない貴重な姿に違いない。
 逃がすまいと組み合わされた手が、心さえ閉じ込めようとしているように思えた。――貴方はいつも私を置いていってしまうから。そんな声が、記憶の中から湧き上がる。
 添水が奏でる音を聞きながら、夜に染まった庭先を眺めた。風に揺れる葉は柔らかな緑に染まっている。

「――シナノ。私はしばらく屋敷を空ける」
「あら……。でも、お兄様がお戻りになられないのは、いつものことでしょう?」
「……ああ、そうだな」
「伯父様達もお忙しくしておられるようですもの。お兄様の事情も重々承知しております。ですけれど、たまにはご連絡下さいね」

 清らかな風が吹く。
 白を阻む、澄んだ風が。
 それはまだ微風でしかなく、世界を揺らがせることはできそうにもない。色を失くした世界に、再び緑を。

「お兄様。どうか、ご無理をなさいませんように。テールベルト空軍の総指揮を執る貴方が倒れては、元も子もありませんもの」

 縋る腕をそっとほどく。
 優しい腕に捕らわれたままでは、翼など広げられようはずもないのだから。


* * *



 紗を被せたように、薄雲が空にかかった夜だった。星は砂粒のような細かさで藍色の空に輝き、こちらの絵本で見たチェシャ猫のようににんまりと弧を描いた三日月が、東の空に引っかかっている。つつけば今にも落ちてきそうだ。
 虫の声がうるさく、じめっとした暑さが肌に纏わりついてくる。日中に比べれば幾分か過ごしやすいが、それでもニホンとやらの夏は厳しかった。このプレートの他の地域は、一体どうなっているのだろうか。聞いてみたい気はするが、どういうわけか現在通信機の不調で、どことも連絡がつかない自体が続いている。
 小さな山の中にひっそりと着陸させた艦は、このプレートでは潜水艦と呼ばれる乗り物によく似ていた。あちらは海に潜るものらしいが、こちらはいわば、空間に潜るものだ。それゆえに、一般には空渡艦と呼ばれているが、正式にはヴァル・シュラクト艦という。誰もが呼びやすい方を選ぶので、たまに書類に「ヴァル・シュラクト艦」と記されているのを見て、乗組員ですらなんのことかと首を傾げることもあった。
 空渡艦は、このプレートの知識で言えば、宇宙船と似たような機能を果たしていた。各プレートを渡る特殊飛行を可能とする、テールベルトでも貴重なものだ。
 ここで言うところの飛行機と同じ形の機も存在するが、それらはプレートを渡るのには適していない。使用するためには、大きな艦に乗せて他のプレートに運び込む必要があった。
 アカギ達が乗ってきた艦は練習艦のため、空渡艦の中でも比較的小型のものだったが、この艦にも個人用の小型飛行樹が搭載されている。丈夫な白の植物で作られた飛行樹は消耗品ではあるが、安価で量産できるために重宝されていた。
 この艦自体も大半が特殊な木製でできているのだが、こればっかりは同じ国の人間とてなかなか信じてくれない。叩いても返ってくるのは金属音な上に、火をつけたところで燃えないとなれば、信じろと言う方が難しいのかもしれないが。
 今朝方小さな店で買った煙草を一服していたアカギは、いつになく慌てた様子のナガトに強引に艦の中へ引き戻された。

「っつ、いってーな! なんだよ急に!」
「黙れバカ! これ、どうする?」
「はァ!? どうするってなに――、げっ!」
「さっきからずっとこの調子なんだよ! 今の今まで繋がんなかったくせに、急に! お前出ろ。絶対その方がいいと思うから」
「いやいやいや、お前だろ。こーゆーのはどう考えてもお前だろ。お前の方が無駄に口回んだろ」

 ハッチでぶつけた頭を痛がる暇もない。
 狭い艦の中に鳴り響くのは、本部からの連絡を告げる通信機だ。いつの間に直ったのか。まるで警報機のように鳴り続けるそれを前に、アカギとナガトは先の見えない押し問答を繰り返した。お前が押せ、いや、お前が。
 毒蜂の大群が耳元で羽ばたき続けているかのようなその音に、ついに根負けしたアカギが通信機のスイッチを入れた。その瞬間、彼らはその行為を激しく悔いた。


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