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 淡い光が空に浮かんでいる。
 太陽が照らす朝には見ることのできない、優しい光が。
 霧雨のように光を地上へと落とす月の周りに、小さな星が輝いた。

 月を乞うて、竜が啼く。

 届かぬ光を追い求め、翼を広げて闇を駆けて。
 それでも、この爪も、この牙も、この声すら届かずに。
 触れることすらできない竜を、月の光が優しく包む。

 ──月を恋うて、竜が泣く。



月蝕の竜



 その戦闘は実に熾烈を極めた。数多の竜が空を覆う勢いで翼を広げ、火を吐き、雷を放ち、竜巻を生み、鮮血を噴き上がらせて墜ちていった。
 黒い雷撃がまた一頭、竜を貫く。墜ちていくその姿を見ながら、ノルガドは血混じりの唾を吐いて邪竜を睨んだ。 
 邪竜アネモス。
 ノルガドが玉座を得るまで、そこに座していた先の竜王だ。彼女は竜の王としては珍しく風竜であったが──その後に続いたノルガドもまた風竜であったため、数奇な運命とも言える──、彼らの持つ本来の穏やかな気性に聡明さと十分な強さを持った存在であった。彼女は王であったがゆえに、本来の力だけではなく多くの属性の力も宿している。それが魔物に転化したせいで、怖気がするほどの苛烈さを持ってしまっていた。
 今は闇を宿した邪悪な風貌をしているが、かつてはとても優美な竜であった。薄緑の透ける鱗を持ち、その瞳は空を拭き清めたような青だった。ノルガドとて、彼女を崇めていた。なぜならと言って、彼女は王であったからだ。
 美しく強い王。風竜などがと陰口を叩く者がいなかったとは言わないが、彼女の牙と爪を前には言葉などなんの意味もない。
 誰よりも優しい竜であった。小さき竜にも弱き竜にも目をかけ、愛した。
 ──そんな竜が、なぜ堕ちた。 
 炎竜が一頭、邪竜の生んだ風の槍に貫かれて墜ちていく。その断末魔の咆哮に、誰もがかの竜の死を悟った。遥か足下の大地が揺らぐ。竜の巨体に潰された人間の建物が白や黒の煙を上げ、その周りを矮小な人間たちがわらわらと逃げ惑っているのが上空からぼんやりと見えた。
 忌々しい存在ではあるが、唯一同格であると認めざるを得ない氷狼の血を引いているくせに、なんというざまだろう。苛立ちを強靭な風の鉾に変えて放つも、邪竜は難なく翼であしらってそれを砕いた。
 地に墜ちていく竜と入れ替わりに、場に似合わぬ清廉な風の気配が昇ってきた。凄まじい勢いで地上から空へと駆けてきたその竜は、澄んだ黄緑の鱗に光を反射させ、竜巻を鋭い槍のようなものへと変えて邪竜へと放った。近くにいた竜たちが煽られて体勢を崩すほどの勢いを持ったそれが、邪竜の右翼を掠める。僅かに噴き出した血はどす黒く粘着質で、鼻が曲がりそうなほどの異臭を漂わせていた。

「ウィンガルド……」

 ノルガドはその風竜の姿を見て、人間風に言えば眉を顰めた。
 確かにあの竜はここにいなければならない存在だ。なぜなら、彼はあの邪竜アネモスが産み落とした卵より孵った存在なのだから。
 竜は血を重んじる。血の始末は血でつけなければならない。それが我らと我らの世の理において定められていることだ、と、ノルガドは胸中で呟いた。だが、と同時に湧いてくる別の思いがある。
 現王ノルガドの目を持ってしても、邪竜の竜玉の在り処を見定めることはできないのだ。それを一介の風竜に仕留められようはずもない。だのに彼は風を操り、他の誰よりも──そう、ノルガドよりも遥かに巧みに邪竜と渡り合っている。
 ノルガドは牙をきつく噛み合わせ、人間には分からぬ竜の言葉で吠えた。

「ウィンガルド! 戻れ!」

 咆哮が空を震わせる。ちらとこちらを向いた群青のまなこには、ノルガドの持ち合わせた語彙では表現しきれない感情が宿されていた。
 凍りつく。王の威厳が、その覇気に頭から飲まれたのを自覚した。
 清廉かつ強靭。ウィンガルドはそんな言葉が似合う竜であった。同じ風竜ということもあって、ノルガドが幼竜の頃より言葉を交わすことも多かった。
 竜にとって、家族の絆はそう深いものではない。血を重んじるが、そこにある情には重きを置くことがなかった。しかしながら、あえてそういう言い方をするならば、ノルガドにとってウィンガルドは兄のような存在であった。
 風竜というくくりだけでなく、竜族全体から見ても年若いノルガドは、まだ飛ぶこともできない幼竜であった頃からウィンガルドと共にいたのだ。飛び方を教えてくれたのも彼だった。成体となってからは、どうして人間なぞに構うのかと冷たく当たることもあったが、それでも──それでも、絆はあった。
 その彼が、死をも厭わず邪竜へと向かっていく。竜玉が彼の体内で燃えるように光っているのが見えた。それはなにも、同じ竜だから見えたわけではない。
 真実、彼の竜玉は燃えているのだ。
 竜にとって、竜玉は最も守るべき存在だ。身体がどれほど深く傷つこうとも、竜玉さえ無事なら癒える可能性は格段に高くなる。だからこそ、竜族は身体の奥深くに玉を隠した。同族からも見えぬように隠すことが可能だった。それを見通すことができるのは、この地で共に生まれたあの氷の狼達だけであった。
 だが、その竜玉が、誰の目にも見えるようになるときがある。ちょうど今のウィンガルドのようにだ。
 ノルガドを護衛するように傍にいた雷竜が、唖然としたように呟いた。

「死をもって贖うつもりか……」
「許さん。命を懸けて戦うことは我ら竜の戦士として当然だ! だが、あれはっ」
「なれど我が王。あの男はもう、玉を燃やしています」
「そのようなことっ」

 言われるまでもなく分かっている。
 竜は、その竜玉を燃やすことによって力を増幅させることが可能だ。しかしそれは文字通り、命を燃やしているのと同じだった。戦いに勝とうとも、炎が消えるときに命は尽きる。燃えて傷ついた竜玉が癒えることはない。それが、彼らと彼らの世の理の一つであった。


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