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「嬢よ、いかがした? 姫神はどうした。一緒ではないのか?」
ひとまずその場に座らせ、水を与えてやる。相手は子どもだ。こういうときの水の飲み方も知らないだろうと懸念していたが、ルチアは水筒を受け取っても一気に飲み干そうとはしなかった。一口二口をゆっくり口に含み、喉を潤して深く息を吐いたのである。
感心すると同時に、シーカーはこの子どもに対する見解を改めた。
今すぐ休ませてやりたいところだが、ルチアの瞳はそれをよしとはしていない。一息つくなり、彼女はシーカーに強く縋りついて叫ぶように言った。
「シーカー! シエラたちを助けて! 竜につかまっちゃったの!」
「竜に? 姫神が? 我が友ジアはどうした?」
「バスィールもいっしょ! ルチアたちだけ追い出されたの! だから、早くもどって助けなきゃ!」
「分かった分かった、ひとまず落ち着け。追い出されたと言うたが、おぬしまさか、竜山から下りてきたのではあるまいな?」
雲を貫く断崖を見上げ、シーカーは僅かな希望も込めてそう訊ねた。
だがルチアは、そんな思いなど知るはずもない。少女はぐずぐずと泣きじゃくりながら、こう言ったのである。
「名前なんて分かんないよぅ……。ふもとの村の、ずぅっと上。竜のお城があるところから」
「なんと……。かような幼子を竜山に放り出すなど、それこそ掟に触れるだろうに。あの馬鹿め……。嬢よ、村には寄らなんだのか」
ここは麓の村からさらに下った場所だ。より入り組んだ険しい道が続く山の中であるため、オリヴィニスの人間も滅多に入らない。ここから崖に添って登れば一直線で竜の国に辿り着くが、木々が邪魔をして大鳥でさえそんな真似はできない。
麓の村で一度助けを求めたのかと思ったが、ルチアは力なく首を振って否定した。
「ううん。タラーイェに会ったらウィンにも見つかっちゃうと思って、村には寄らなかったの」
「……これは、これは。いや、実に驚いた。人の子の、それもこれほど幼い娘子が、あの頂より歩いて参ったか。時渡りでさえ、人化する力は残っておらぬというのに」
シーカーはルチアから話を聞き、ますます深い溜息を吐いた。
竜王が姫神を捕らえたことにも無論呆れたが、こんな子どもが自力でここまで下りてきたことに驚きを隠せなかった。竜であるはずのテュールはすでに体力が底をついたのか、ルチアの膝の上で気を失ったように眠っている。
竜の宮殿を追い出されたルチアは、まだ小さな竜に目星をつけて自らの血を利用した毒を与え、朦朧とした状態にある竜を操って山を下りてきたのだという。大鳥の代わりをさせられた竜は死んだのかと聞いたら、殺すほどの毒ではないと少女は答えた。
ここで竜を殺せば、囚われたシエラ達に危険が及ぶかもしれないと考えたらしい。
ますますもって舌を巻く。これは人間の子どもにしておくには惜しい代物だった。
「ふうむ。嬢よ、大きくなったら嫁に来んか」
半ば本気で言ったシーカーだった。竜の身からすれば、人の子が大人になり子をなせるようになるまでの数年など一瞬に等しい。
葡萄色の前髪を払い、擦り傷を負った額を軽く啄むと、舌先には微かに血と汗の味が触れた。
竜の嗅覚と直感は、目の前の少女が危険なものであると告げている。どこから見てもただの人間でしかない少女だが、ルチアの身体からは幻獣界最強と謳われる竜でさえ脅かしかねない匂いを発しているのだ。
それでも構わないと思った。これほど面白い存在にはなかなか出会えない。
彫りの深い、男盛りの照りを存分に備えた風貌の中年男性が幼い少女にじゃれつく姿は、並の人間の目から見れば異様に映ったことだろう。だが、ルチアは嫌がるでもなく怒るでもなく、疲労を湛えた顔に僅かな笑みさえ浮かべていた。
小さな手がゆっくりとシーカーの頬を撫で、子どもには見えない艶やかな表情で指先を唇に押し当てる。
「だめ。ルチア、大きくなったら、ラファータのおよめさんになるの」
「ラファータ(妖精)? ほう、それはそれは……」
「だからシーカーのおよめさんにはなれないけど、でもね」
ふわり。
花が綻ぶような笑みを浮かべ、ルチアは屈んだシーカーの首に腕を回した。額が重なる。シーカーの高い鼻先が、少女の肌をくすぐった。