23 [ 447/682 ]

 黒い獣が、血のように赤い夕陽を浴びて高く咆哮した。禍々しい気が辺りを覆う。
 シエラが伸ばした手の先に、銀の弓が現れた。弓も矢も、眩しいほどに輝いている。
 白銀の矢を番えて黒い獣を射るも、獣は靄となって散り、そしてまた黒い獣となる。最後の矢を手にした途端、獣は高らかに嗤って言った。

「それは破滅の矢。放てば必ず己に帰る」

 黙れ。吠えた声は燃える夕陽に呑まれて消える。矢を放ったその瞬間、黒い獣は断末魔を上げて草原に縫い止められた。重い空気が掻き消える。だが、血生臭さは一向に消えてくれない。
 のたうつ獣は、いつの間にか姿を変えていた。白銀の矢が射止めていたものは、巨大な漆黒の翼だった。濡れたような艶を帯びる六枚羽だ。片翼の六枚羽が血に濡れる。
 少女の悲鳴が聞こえ、そこでシエラの目は覚めた。



「クラウディオ平原へ行きたい? 随分と急だね」

 飛び起きるなり、シエラはユーリのもとへと駆け込んでいた。先客がいたが構う余裕もない。あの夢がただの夢ではないことくらい、今のシエラには理解できる。
 神の後継者が見る夢の中でも、特に五感に訴えかけてくる現実味を帯びた夢には、必ずと言っていいほど意味がある。予知夢とまではいかないが、なにかを暗示していることは確実だ。
 夢の内容をつぶさに語って聞かせたが、ユーリはシエラのことなど相手にしようともしなかった。挙句、「客人の前だから下がりたまえ」と優美な笑みで追い払おうとしてくる。
 蒼い髪が大きくうねるほど勢いよく詰め寄ったシエラを、ユーリは事もなげに受け止めるのだから余計に腹が立つ。

「あの平原にはなにかある。これは私が見た夢なんだ。間違いない」
「そんなに気にかかるのなら、誰かに調べに行かせよう。有益な情報をありがとう、蒼の姫君」
「他の人間にあの場所が分かるのか? 具体的にどの辺りかは説明できないぞ。だが、私が行けば話は別だ」
「姫君。言っているだろう、それは許可できないと」

 脳裏によみがえったのは、シルディの言葉だった。
 ロルケイト城の一室で、秘書官のレンツォに「許可できない」と言われた彼は王子然とした態度できっぱりと言い放ったのだ。「なら、命令する」と。それができるのは彼がホーリーの王子だからだ。
 確かにシエラはこの国にとって特別な存在には違いないが、アスラナ国王に命令できるだけの立場にはない。
 揺れる黒い靄。おぞましい空気。燃えるようなクラウディオ平原。あの夢は必ず、シエラを導いている。それが分かっていて動けない悔しさともどかしさに歯噛みしたシエラは、低く唸るように言った。

「クラウディオ平原には、なにかある。黒い翼を見たんだ。それに、先日クレシャナ達が襲われたのもあそこだっただろう!」
「――黒い翼?」

 僅かな違和感を覚えたのは、ほんの一瞬だ。聖杖を握るユーリの手がぴくりと動き、驚いたようにシエラを見た。

「クレシャナは、平原で突然魔物に襲われたと言っていた。本来、王都の加護が授けられているはずのクラウディオ平原でだ。魔導師の問題にばかり気を取られて魔物退治が遅れるだなんてことがあったら、お前(聖職者)が玉座でふんぞり返っているなんてとんだ茶番だぞ」

 シエラに空と海の加護をと願った少女は、柔らかく微笑んでくれた。あのような心の優しい少女が魔物の被害に苦しめられているのに、力を持つ者がなにもできない、しないというのは絶対におかしい。
 畳みかけようとしたシエラを、ユーリが手をかけて制する。

「それでも駄目だ。平原には使いを出す。君はこの城で待っていなさい」
「アスラナ王。そう頑なになられる理由を伺ってもよろしいか」

 耳の奥にすうっと染み入るような心地よい声とともに、シエラの傍らに極彩色の衣が揺れた。さらりと背に流れる銀髪は、その一部が複雑に編み込まれている。
 一度見れば忘れない、芸術そのもののような刺青(しせい)が彫り込まれた美貌の青年は、ともすれば冷たく見える紫銀の双眸で静かにシエラを見上げてきた。上背は言うまでもなく男の方があるが、彼は今、呼吸する自然さで足元に跪いている。

「姫神様は、神の目にて先をご覧になられたのですね」
「は? 神の目? 先?」

 先日会った折に名前を聞いたような気がするが、散々気が立っていたせいで微塵も思い出せない。長ったらしい名前だったことだけは記憶しているが、覚えているのはそれだけだ。
 オリヴィニスの高僧はシエラに深々と頭を垂れて何事かを唱えてから、跪いたままユーリに向き直った。その一挙手一投足に目が奪われる。こんなにも派手な客人がいたというのに、微塵も目に入らなかった自分自身にシエラは驚いた。

「アスラナ王。姫神様は真白き神の御子であらせられる。そのお方の目はまさしく神の目。夢は未来の暗示。なにゆえ、神のお導きに瞼を閉ざされるのか」

 男のガラス玉のように透き通った瞳が、まっすぐにユーリを見つめていた。
 今までに見たことがないような、不思議な色だ。銀が強いのに、そこに紫が揺れている。その目がゆっくりと瞬き、再びシエラを射てからユーリに戻る。

「我ら人の子には見えぬものを見通す神の目なくして、いかにして闇を祓うことができようか。アスラナ王、お聞かせ願いたい。貴殿はなにゆえ、そう頑なになられるのか」
「マクトゥーム殿、これは我が国の問題です」
「それはおかしい。姫神様は――、神の後継者様は、いつから“アスラナ所有のもの”になられたのか」

 小さな子どもが「なんで空は青いの?」と問うような調子にもかかわらず、男の言葉はユーリだけでなくアスラナという国そのものに深々と突き刺さるものだった。
 シエラ・ディサイヤは紛れもなくアスラナ国民だ。アスラナに忠誠を誓い、アスラナに生きる者と表現してもなんらおかしくはない。国王が自国民を我がものとして扱うことも間違いではない。だが、神の後継者となれば話は別だ。


[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -