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脳裏に浮かび上がってくるのは、優しい両親の笑顔と、それから先ほど見たルッツやローザのエルクディアを呼ぶ声。
水面に投げ入れた小石が景色を崩すように、その光景も歪んでは消えていく。しかしひとたび波紋が収まれば、またその光景が鮮明に浮かんで揺れている。
まるで悪夢のような、途方もない繰り返しだった。
渦巻くのは嫉妬と不安。とくとくと切なくなるほどの速さで刻まれるこの鼓動を、シエラは知っている。この不安も、以前感じたことがあった。
大分、昔の話だ。まだまだシエラが幼い頃、毎夜毎夜、魔物の呼ぶ声が頭に響いてきて――あの頃は、どうして自分だけにしか聞こえないの、どうして私なの、とずっと泣いていた。
なにも変わってはいない。大きくなっても、なにかを守ろうと思っても、結局なにも変わってはいないのだ。
自分を引きずり落とそうとする声に、決して耳を傾けてはいけないのに。
「…………」
「がう?」
「……なぜ、声が…………?」
ぐるぐると渦巻いていた思考が、そこでふつりと途絶えた。いきなり足を止めたシエラを、テュールが不思議そうに見上げる。
金の瞳は、なにを映すでもなくただただ前を見据えていた。
なぜ昔と同じ声が聞こえたのだろう。自分の本心だというのならば仕方がない。
だが、あの声はやや低くなってはいたものの、あのとき聞こえていた魔物の声とそっくりだったのだ。幼い頃、ずっと苦しめられてきた謎の声。忘れるはずがない、あのおぞましい感覚。
今それが唐突によみがえり、シエラの全身に寒気が走った。はっとして辺りを見回せば、そこはエルクディアの家から大分と離れた王都の端に来てしまっていたらしい。
見知らぬ建物が並び、見知らぬ人々が辺りを行き交う。
急激な不安――先ほどのそれとはまったく別物の――がシエラを襲った。じんじんと痛み出した手のひらにようやく気づき、視線を落とせばテュールが熱心に血を舐め取っている。
どうしよう――そう思った途端、彼女の鼓膜を聞きなれた声が震わせた。
「シエラ!」
「……! エルク……ライナも、いたのか」
「当然ですよ。ずっと後ろにいました。……貴方の様子がおかしかったので、声はかけませんでしたけどね」
ちらりとライナの視線が移動して、シエラのゆるく握られた拳を見た。すると彼女は整った柳眉をこれでもかと寄せて、小さく息をついた。
その所作は、エルクディアも同じだ。
「たっく、あんまり心配かけさせるな。いきなり空間が捻じ曲がってここまで来たときには、本気で心臓止まるかと思ったぞ」
「捻じ曲が……?」
「え? シエラがテュールに頼んで時空を歪めたんじゃないんですか?」
「いや……私はなにも」
エルクディアとライナが顔を見合わせ、表情を引き締める。続いてテュールに確認を取るように視線を向けるも、小さな竜はきょとんと目を丸くさせるばかりだった。
ちゃり、とシエラの胸元で揺れたロザリオが意味ありげに音を立て、金の双眸が辺りを窺う。
「……時渡りの竜が関与せず、空間移動したってことはあれだな」
「魔女の力、としか考えられませんね。エルク、この辺りですか?」
「多分そうだろ? 父さんが言ってた路地裏はこの奥だったと思う。ベスティアにまで行く必要がなくて助かったが……シエラ、足大丈夫か?」
シエラを案じるエルクディアの言葉に、彼女は初めて自分の足元を眺めた。気づかない間に大分歩いたのだろう。
言われてみれば、確かに足の裏がじんじんと痺れに似た痛みを持っているような気がする。
そういった類の痛みは、一度自覚してしまえばひどくなるもので、強さを増していく足の痛みに彼女はぎゅうと眉根を寄せた。
まったく、と呆れたように小さくぼやき、エルクディアがすっと手を差し出した。意味を解せず、その手を凝視していたところで再び彼が息をつく。
新緑の双眸がちらと向けられ、シエラは二、三度意味もなくぱしぱしと瞬いた。
「手、貸せ。それともおぶってやろうか?」
「は? …………っ、いい! 誰がそんなこと……!」
「ふふ、シエラったらそんなに照れなくてもいいじゃないですか。遠慮しないで、背負ってもらっては?」
たっぷりと間を空けたのち、ぼんっと音がしそうなほど真っ赤に顔を高潮させたシエラが、差し伸べられたエルクディアの手を勢いよく打った。
ぱちんと予想に反した愛らしい音が響き、彼女の頬はより一層朱に染まっていく。