1.シナノとヤマト [ 22/22 ]

*爪先にキス


 柔らかく染め変えられた世界に、その人はいた。
 それを見たとき、シナノは小さな心臓がたちまち凍りつきそうなほど驚き、目を白黒させた。
 慌てて戸を閉め、周囲に人影がないことを確認してから、そろりと引いて中の様子を覗き見た。西日の差し込む広々とした和室に、長躯の影が横たわっている。――ああ、見間違いではなかった。
 兄のヤマトが久方ぶりに屋敷に帰ってきたのは、この朝のことだ。多忙を極める彼と話す暇などなく、同じ敷地内にいるにもかかわらずまともに顔すら合わせることなくこの時刻まで過ぎてしまった。
 付き人のハマカゼから今ならば自室で休んでいる頃合いだと聞き、浮足立つ心を押さえながらやってきたのだが、外から声をかけても返事はない。不在かと思い戻ろうとした折、物音が聞こえてきたために中を覗いた結果が今に至る。
 足音を殺すようにしながら部屋に上がり、シナノはばくばくと大きな音を立て続ける己の胸元にぎゅっと拳を押しつけ、畳に伏す兄の姿を見て息を飲んだ。

 信じられない光景だった。
 いつも完璧な立ち振る舞いをする兄が、二つ折りにした座布団を頭の下に敷き、畳の上にそのまま身を横たえて眠っている。男性にしてはほんの少し長めの黒髪は、セットが乱れて座布団から零れていた。閉じた瞼の上に陽が差し、眩しそうに眉を寄せるその表情のなんと濃艶なことか。
 見れば、ヤマトの傍らに空の湯飲みが倒れていた。先ほど聞こえたのは、どうやらこの湯呑が座卓から落ちた音だったらしい。
 濃紺の麻の単は、彼の風貌にとてもよく似合っている。
 夏の暮れとはいえ、まだ蒸し暑く残暑の厳しい頃だ。朝ちらりと見たときは礼装していたから、一仕事終えて休むつもりで着替えたのだろう。足袋すら履いておらず、形の良い爪先が無防備に投げ出されていた。

「お兄様……」

 しばらく憑かれたように見惚れていたシナノだったが、突如はっとして居住まいを正した。どうしようかと考えて、窓際へそうっと足を運ぶ。ちょうどヤマトの顔に影が落ちる場所に腰を下ろすと、兄の眉間から皺が消えた。どうやら正解だったらしい。
 それにしても、シナノがここまで近づいても目を覚まさないだなんて相当疲れていたのだろうか。きっとそのはずだ。でなければ、兄がこんな風に布団も敷かずに眠るだなんてありえるはずがない。
 前髪の隙間から、痛々しい火傷の痕が覗いていた。数年前の空中火災事故で生死を彷徨った兄が、一度空に囚われかけたときの名残だ。もう少しであの空に兄を奪われるところだったと思うと、広がる青空にも複雑な思いが込み上げてくる。
 渡したくなどない。渡せるはずがない。
 もうずっとこのままこの屋敷にいて、一緒に暮らしてくれればいいのに。
 その願望がただの子どもの我儘だと自覚しているからこそ、シナノは口を噤んで言葉を飲み込むより他にない。
 寝息さえ聞こえぬほど静かに眠るヤマトの頬に、そっと手を伸ばして熱を確かめる。目元にかかった前髪を払っても、まだ彼は目を覚まそうとはしなかった。一体どれほど疲労が溜まっていたのだろう。それとも、シナノだからこそ安心して眠ってくれているのだろうか。

「わたくしの、お兄様」

 呼吸するたびに上下する喉仏、僅かに肌蹴た着物の合わせ目。
 起きているときには想像もつかない姿に、鼓動がシナノを急き立てる。じわりと湧き上がるこの思いには、どんな名がつけられているのだろう。唇から零れた吐息には、どんな色が塗られているのだろう。
 熱の籠もった息の漏れる己の唇に指を当て、シナノはその熱さを感じて全身を震わせた。
 まるで、気高き野生の孔雀が森の奥で眠るところに遭遇したかのようだ。近づいても目を覚ますことなく、果ては触れても起きることはない。そのことが、ここまで心を震わせ、昂らせる。
 ――あと、もう少しだけ。
 衣擦れの音がしたのは、自分が身体をずらしたからだとあとから気づいた。たった今まで己の唇に触れていた指先で、ヤマトの爪先に触れる。この人は、足の先すらこんなにも美しく、尊い。
 つ、と爪先から甲へと指を滑らせたところで、初めてヤマトが身じろいだ。「お目覚めですか」と声をかける暇もない。跳ね起きた兄はシナノの理解が追いつかない速さで腕を掴み、一瞬でシナノを畳の上に縫い止めたのだ。
 衝撃と痛みを追うように、冷ややかなヤマトの顔が己を見下ろす。

「――シナノ?」

 ほんの、僅か。針の先で突いたほどの小さな驚きが、ヤマトの表情に滲んで見えた。
 シナノを縫い止めていた手が、今度は優しく引き起こしてくれた。たった今の今まで己の上に兄が覆い被さっていたのだと思うと、かっと頬に熱が走る。
 いつの間にか着物を整えていた兄は、未だ強く差し込む夕日に目を細め、顔を赤らめるシナノにそっと問うた。

「なぜここに」
「お兄様と、お話がしたく思いまして……。お疲れのところ、申し訳ございませんでした」
「いや……。それより、なにか……――」

 ヤマトは一度己の爪先に目を向け、そして途中で言葉を切った。「いや、」小さくかぶりを振るその仕草に、もう眠気や疲労は見られない。片膝を立てていた体勢からきちんと正座をしたヤマトの姿は、もうすっかりいつもの兄だった。


 どこまでも気高い、野生の孔雀。
 深緑の翼を纏った、美しい鳥。
 この胸を満たす感情の名を、今はまだ知らない。


(爪先へのキスは、崇拝のキス)
(2015.0823)

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