1.エルクとシエラ [ 1/22 ]
それは、本当に唐突だった。
エルクディアがシエラの髪をいじりたがるのは、別に今に始まったことではない。そのことは別に気にならない。なにが楽しいのか分からないし、いじられている間、ろくに身動きを取れないのが面倒だと思うくらいだ。
けれどほどよい力で頭皮が引っ張られる感覚は嫌いではなかったし、なにより、伸ばしたくて伸ばしているわけではない長髪がすっきりと纏められるのも、悪くはなかった。
だから今日も、ブラシを持ってエルクディアが後ろに座っても、シエラは特に抵抗することはなかった。目の前の大きな窓からは、アスラナ城の外壁が見える。向かい側の窓に、忙しなく行き交う侍女達の姿が見えていた。
髪を滑るブラシの手つきは慣れたもので、騎士団の総隊長を名乗る男の手つきにしてはやけに丁寧だ。外見からすれば違和感もないのかもしれないが、肩書きだけで見れば笑いたくもなったかもしれない。
丁寧に梳られて、僅かな風にも細い髪が舞うのが分かる。シエラは用意されていたカップを取って、できるだけ頭を動かさないようにしながら紅茶を飲んだ。
「そういえば昨日、サイラスが城下の射的屋台で、馬鹿みたいに大きいぬいぐるみを当ててきたんだ」
「誰だ、それ」
「ああ、騎士団の奴。サイラス・ファング。十番隊――って言うより、フェリクスのって言った方が分かりやすいか? まあそこの騎士だよ。髪が紫色した、ちょっと細身の奴。見たことないか?」
「紫……、ああ、アイツか」
「そう、そいつ」
くすくすと笑って、エルクディアはサイラスがぬいぐるみを抱えて持って帰ってきた話を語った。
「いい年した軍人の男が、体の半分くらいありそうなウサギのぬいぐるみを抱っこしてたんだ。騎士館だけじゃなくて、門兵ですら腹抱えて笑ってたらしい」
「そいつは、そのぬいぐるみが欲しかったのか?」
「いいや」
「だったらなぜ」
「なんか、射的にムキになってる女の子がいたんだってさ。でかい的のわりには、重心が下だからなかなか倒れないらしくって。それで親切心を働かせて、代わりに一発で仕留めてみせたらしい」
話しながらも、エルクディアの指先がシエラの頭を滑っていく。どうやら今日は、ラヴァリルのような三つ編みにするらしい。一つに纏められたかと思えば、ざっくりと毛束を分けられたのが分かった。
「なぜそいつが持って帰ってきたんだ。代わりに取ってやったんじゃないのか?」
「その子、ぬいぐるみが欲しいんじゃなかったんだってさ」
「はあ?」
思い出し笑いか、エルクディアの声は震えていた。
指先に余計な力が入ったのか、頭皮がつんと引っ張られる。
「その女の子、ぬいぐるみが欲しいんじゃなくて、ただ落としたかっただけなんだって。それでムキになって一時間以上も粘ってたらしいのに、横から一発でサイラスが仕留めたもんだから、もうカンカン」
「それは、なんとも……」
「しかもその子、家が武官の家系らしくって。気が強いのなんのって」
笑いながら、髪が編まれていく。振動に合わせて、かすかな刺激が伝わってくる。
後ろから聞こえてくる笑声が心地よかった。綺麗に磨かれた窓に、うっすらと笑顔のエルクディアが映り込んでいた。彼はこちらを見ていない。楽しそうに頬を緩めて、シエラの髪に視線を落としている。
「それで、どうなったんだ」
「意気揚々とウサギを手渡した瞬間、『余計なことをしないでください!』って怒鳴られて、頬に一発平手打ち。あげるって言っても当然断られて、それでしょげて帰ってきたんだよ」
「哀れだな」
「そう言ってやるなって。ほんとにへこんでたんだから、あいつ」
エルクディアはそう言ったが、声音も表情も、「そう言ってやるな」という台詞とは正反対のことを物語っていた。「好みだったんだってさ」完全に面白がっている様子で、彼は小さく笑う。
順調に編み進められていく髪が、窓に映って見えた。あともう少し。
「そのぬいぐるみはどうしたんだ?」
「ん? 多分まだサイラスが持ってるよ。欲しいのか?」
「別に、そういうわけじゃない」
「欲しいなら貰ってきてやるよ。あいつだって貰い手探してるみたいだったし」
「ただしめちゃくちゃ大きいぞ」と笑うエルクディアは、こちらの話を聞いていない。
別に欲しいと思ったわけじゃない。子供じゃないのだし、ぬいぐるみなんぞに興味はさしてない。ただ、誰にも所有されることを望まれていないぬいぐるみがどんなものだったのか、少しばかり気になっただけの話だ。
唇を尖らせたシエラに構わず、エルクディアはテーブルに手を伸ばして、箱の中に仕舞い込まれている髪留めを探し始めた。どうやら最後まで編み終わったらしい。
髪飾りだけを詰め込んだ三段式の箱は、シエラの物でもなければ、エルクディアの物でもない。神の後継者を飾りたてたくて仕方がない侍女達が、自分達ではできないからとエルクディアに押し付けたものだった。ありがた迷惑とはこのことだ。シエラに渡したところで日の目を見ないということは、すでに読まれている。
エルクディアは指先で探りながら、今日の髪留めを決めたらしい。宝石で花が模された飾りつきのヘアゴムが、シエラの横を通り過ぎていった。しゃらしゃらと音が鳴る。これではきっと、歩くたびに音がして猫にでもなった気分になるだろう。
半ば呆れたように息を吐いて、シエラは窓越しにエルクディアを見た。彼は相変わらず、見られていることに気がついていないらしい。
軽く上体を左右に動かして、髪の具合を確かめている。いつもこんな風にしているのかと、なんとなく感心した。
ぼんやりと見ていたそのとき、エルクディアが纏めた髪を掌で掬い上げた。頭から重みが消えたので、見ていなくてもそこまでは分かったに違いない。
ゆっくりと瞳が伏せられて、綺麗に編まれた髪に、唇が触れた。
全身がかっと熱くなるのを感じて、シエラは慌てて目を逸らした。なんだ、今のは。そうこうしている間に、頭にはいつもの髪の重みが戻ってくる。
気のせいだったのだろうか。なにかを思い慕うように、祈るようにと触れた唇。それが事実であれば、神の後継者に向けられたものだったのだろう。
奇跡の蒼に、祈りを。きっとそうだ。
「よしシエラ、終わったぞ。……シエラ?」
耳元で聞こえた声に、肩が跳ねた。ついでに声も裏返る。俯いたシエラを覗き込んでくるエルクディアは涼しい顔をしていて、無性に腹が立った。すうすうする首が落ち着かない。どう表現していいのか分からない気持ちが、不思議でならない。
窓なんか見なければよかった。
髪に落ちてきた唇がどれだけの熱を孕んでいたか、シエラには分からない。
彼は蒼に、なにを思ったのだろう。
(髪にキス:思慕)