甘いボトルに秘めたのは [ 193/193 ]

※本編終了後のナガトと奏



 ふわり、漂ってくる香りが記憶にあるものと少し違っていた。下品にならない程度にくんと鼻をひくつかせ、すぐ傍から香る匂いをひそやかに分析する。
 以前は確か、柔らかなムスクの香りだった。大人びたそれはナガトの好むものであったし、彼女にもよく似合っていた。今の甘い香りにもムスクは含まれているのだろうが、あの頃の香りに比べると幾分かフローラルが勝っている。おかげで印象としては愛らしく、より女性らしいものへと変化していた。
 明日はどこへ行こうかと俯いてタブレットを操作しているうなじを見ていると、雄の衝動は容易く腹の底に生まれる。なにかを問いかけられた気もするが、今のナガトの頭には内容などろくに入ってきていなかった。

「奏、ちょっと」
「んー? やっぱこっちのがいい? 連休やし混んでそ、」

 ──混んでそうやもんなぁ。どうせやったらゆっくりしたいやろ?
 彼女が言いたかったであろう言葉は、飲み込んだ続きでさえもう簡単に想像ができる。
 聞かずとも分かるから、などと言い訳をして、ナガトは浮かんできた欲のままに、こちらを振り仰いだ柔らかな唇を盗んだ。もう何度も同じことをしているというのに、それでも奏はびくりと怯えるように身体を震わせる。
 一度触れ、二度触れ、三度目になって、目の前の身体からやっと力が抜けていく。
 新調したばかりだという淡いペールグリーンのカバーが掛けられたソファはそう大きくはないので、並んで座れば肩は常に触れ合う状態だ。華奢な肩を抱き寄せて後頭部を支え、未だに位置を決めかねているらしい彼女の手をさりげなく誘導して己の首へと回させる。
 甘い香りが濃くなった。
 薄く瞼を開ければ、目を瞑った奏の睫毛が震えているのが見えた。勝気な瞳が隠されているのが少しもったいないような、けれどもこんな様子を見られる特権が嬉しいような、なんとも贅沢な気持ちで心が満たされていく。

「ん、……ナガ、ト、まっ、ほの、が」
「まだ帰ってこないよ。アカギだって品行方正の優等生ってワケじゃない」
「でもっ」
「じゃああと一回だけ。ね?」

 壁にかかった時計は二十一時を示していた。確かに穂香一人なら、いつもこの時間には帰宅している頃だろう。けれど今日は事情が違う。
 久しぶりに休暇をもらい、やっと会えた貴重な時間なのだ。他プレートという想像を絶する遠距離で関係を結んでいる自分達としては、こんなチャンスを逃すわけにはいかないと思っている。勝手に一括りにしているが、アカギとて同じだろうから構わないだろう。
 物言いたげな奏の鼻先に己の鼻を摺り寄せ、ねだるようにじっと見つめれば彼女は目に見えてたじろいだ。こちらも伊達に「テールベルト空軍の王子様」などと呼ばれてはいない。彼女は存外この顔を気に入っているようであったし、押しに弱いことはもうとっくに把握している。
 今すぐにでも組み敷いてしまいたいけれど、そんなことをすれば素直ではない彼女は顔を真っ赤にして怒ってしまうだろうから、ぐっと我慢して相手が堕ちてくるのを待つしかない。
 幸い、こうした駆け引きめいたやりとりは好きだった。抱き締める腕に力を込めて、まっすぐに瞳を見つめて。唇に触れるぎりぎりのところで、掠れた声で名前を呼んでやる。

「かなで」

 たった三音。
 短い音なのに、それはどんな甘い言葉よりも絶大な効果を持っていた。
 大きな瞳が揺らぐ。目尻が赤く染まり、頤がほんの僅かに震えた。泳いだ眼差しが、再びナガトへと戻ってくる。
 触れ合った肌から伝わってくる熱と鼓動が奏の答えをなによりも雄弁に伝えてくるけれど、直接言葉で示してほしい。そんなことを口にすれば、彼女はきっと「性格悪い!」とクッションで殴ってくるのだろうけれど。

「……それだけ、やで」
「それって?」
「だ、だから、それ」
「うん?」
「だからっ!」

 耳とは言わず首まで赤くして、奏は怒鳴った。潤んだ双眸が愛おしい。もっと見ていたいけれど、これ以上続けると臍を曲げてしまうに決まっている。
 幸せで口元が緩むのを自覚しながら、ナガトは許された貴重な「それ」を実行に移した。グロスの落ちた唇にキスをする。招くか拒むか迷っているらしいそこを軽く舌先でなぞれば、彼女はおずおずと唇を開いた。
 ──さて、どうしようか。
 どこまでも慈しみたい気持ちと意地悪い気持ちが、同時に顔を覗かせる。
 軽く舌先を絡めただけですっかり力の抜けた奏の身体をソファの肘掛けにもたれさせ、ナガトは両手で彼女の耳を塞ぐように小さな頭を包んだ。
 上向かせ、やや強引にキスを深める。逃げる舌を追いかけて捕まえて、強く吸っては軽く歯を立てて。
 きっと今頃、奏の頭の中は淫猥に響く水音で満たされているのだろう。それがどれほどの羞恥を煽るのかは知れないが、首の後ろに回された腕が抗議するように後頭部を叩いてきたので大方の予想はつく。
 服越しだというのに、互いの体温が瞬く間に上昇していくのを感じる。さあ、あとどれほどこのキスを続ければ、彼女は堕ちてくれるだろう。
 芯を失くして蕩けた姿も好きだけれど、いつもの勝気な姿も好きだ。どちらも見たいという我儘は、なにより己を一番困らせる。
 やわく下唇を食み、その内側のぬるりとした粘膜をくすぐるように一舐めして、名残惜しさを感じつつナガトはキスを解いた。
 くったりと力の抜けた身体がソファに沈みかけ、濡れた睫毛が何度かゆっくりと上下している様子は、実に目の毒だ。たっぷりと時間をかけて焦点を結んだ双眸が、ぎっと強く睨みつけてくる。

「っの、ヘンタイ!」
「なにが。ちゃんと約束守ったでしょ? 一回しかしてないよ」
「長い! しつこい! ヘンタイくさい!」
「ちゃんと『それってなーに?』って聞いたのに、はっきり言わなかった奏が悪い」

 ちゅっと音を立てて額にくちづけると、奏はあっさり言葉に詰まった。唸りながら両手で顔を覆う仕草は最上級に愛らしいが、果たしてこれは計算なのだろうか。
 首筋に顔を埋めて、耳元ですんと息を吸う。びくつく身体を宥めるように──あるいはさらに煽るように──耳朶を唇で挟んで、新しい香りを堪能した。

「ところで、香水変えた?」
「え? あ、まあ、うん……。よお分かったな」
「きみのことならなんでも覚えてる」
「……引くわ」
「またまた、照れちゃって。かーわいー」
「うっさい! そこで喋んなアホ!」

 じたばたと暴れ出す身体を抱き締めて、あっという間に膝の上に向かい合う形で抱き上げた。似たようなことをすると奏はいつも驚くが、こちらはこれでも立派な軍人だ。そこらの男よりよほど力も体力もある。
 こうすると奏の方が僅かに目線が高くなる。見下ろされるのも案外悪くないなぁなどと、また怒られそうことを考えながら、ナガトは柔らかな身体から漂う甘い香りに身を委ねた。

「この匂いかなり好き。どこの香水?」
「あー……、忘れた」
「今の言い方的に完全に嘘だけど、どうして嘘つく必要が? 男にでももらった?」
「違う! 自分で買ったやつ! でも忘れたの! それでええやろ!?」

 一瞬傷ついたように歪んだ顔が、瞬く間に羞恥に染まる。それほどまでに隠したい香水とは一体なんだろう。もしやネット通販で見かける、怪しげな媚薬香水の類だろうか。奏に限ってそんなものに手を出すとは思えないが、万が一ということもある。それならそれで嬉しいだけだが、追及するのは得策ではないだろう。
 せっかくの夜だ。今は楽しい口論を重ねるよりも、この香りのような時間を過ごしたい。

「うん、分かった。思い出したら教えて」

 尖る唇を軽く啄んで笑えば、奏は「二回目。うそつき」とますます唇を尖らせた。
 その夜は結局、アカギ達は戻ってこなかった。帰ってこられても少々気まずい状態だったので、相棒には珍しく心からの称賛を贈りたい。
 二人きりの翌朝、ぐっすりと眠る奏のために紅茶でも淹れようかとベッドを抜け出した折、ナガトは朝日に照らされて輝くピンク色のボトルをサイドテーブルに見つけた。可愛らしいデザインのそれは、きっと奏の香りの正体だ。
 反則かとも思ったが、好奇心は殺せない。そっと覗き込んで、ラベルを見る。
 彼女が言い渋ったその名前を見て、身体の内側になんとも言えない感覚が駆け巡った。

 "I miss u."
 ──あなたがいなくて寂しい。

 鍵のかかった扉の向こう側、その最も柔らかな心の奥を盗み見てしまったような気がして、かすかな罪悪感と寂寥感、それを上回る愛おしさが溢れ出る。
 目覚めの紅茶は後回しだ。今頃きっと夢の中にいるであろう奏の髪を優しく掻き分けて、ナガトはその耳元に唇を寄せた。

「俺もだよ」

 強がりな奏のことだ。きっと思っていたとしても口にはしないだろう。言ってもどうしようもないことだからと言い聞かせ、言えば困らせるだろうからと我慢して、そうして溜め込んでいくのだ。
 奏の好みにしては少し甘すぎるデザインのボトルと香り。どういう気持ちでこれを選んだのだろう。香りの好みが変わった? 特に意味はなかった? ──それとも、口にはできない想いを重ねた?
 このプレートをあとにするとき、いつも思う。
 このまま連れて行ってしまおうか、と。
 思うのに、言えない自分に嫌気が差すのだけれど。

「かなで、朝だよ。そろそろ起きて」
「ん、ぅ……」
「でかけるんでしょ? もうすぐほのちゃん達帰ってくるよ。このままでいいの?」
「……よくない」
「じゃあほら、起きた起きた。朝ごはん用意するから、顔洗っておいで」

 ぐずる子どもの頬を優しく叩いて起こしてやる。しばらくもぞもぞとしていたが、やがて観念したのか奏はゆっくりと起き出した。
 部屋を出る間際、言い忘れたとばかりに振り向いて、寝ぼけ眼の彼女に笑いかける。

「おはよう、大好きだよ」

 ぐぅっと喉を鳴らして眉間に皺を寄せる姿は「かわいい」とは言い難いけれど、それでも不思議とかわいく見えるのだから惚れた欲目だ。
 ミルクティー色の髪を手櫛で整えながら、奏は蚊の鳴くような声で言った。

「…………しってる」

 それはよかった。
 鼻歌混じりで焼いたオムレツが出来上がる頃、玄関からは優等生を脱した二人組が帰宅する音が響いてきたのだった。


(2017.09.16)


[*prev] [next#]
しおりを挟む

back
top

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -