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だがそれも一瞬だ。敵はあの化物だけではない。唸り声をあげる感染者も、動物も、後を絶えない。僅かな沈黙ののち、銃声はすぐさま息を吹き返した。
鉄よりも硬い種の弾丸は、巨大な白の化物には向かわない。誰もが苦い表情で周囲の敵を倒すことに専念している。
――なぜだ。
どれほどもがいたところで、ソウヤは拘束の手を緩めてはくれなかった。「アカギ、落ち着けって!」ナガトが切羽詰まったように叫ぶが、水中にいるかのようにぼやけて聞こえる。
「離せよっ、――穂香!」
ずず、ず、ずず。
巨躯を引きずり、白の植物は穂香へ距離を詰めていく。花がもたげ、そこに眼でもあるかのようにじっと穂香を見下ろしていた。
まるで腕だ。最も長い蔦が二本、ゆっくりと穂香へと伸ばされた。
がくがくと震える彼女は、ついに恐怖で動けなくなったらしい。涙をいっぱいに溜めた瞳がおぞましい化物を見上げ、色を失くした唇が縋るようになにかを呟いた。
細かな繊毛を持った蔦が、慈しむような緩慢な動きで穂香の頬を撫でる。あくまでも優しく、親が子を宥めるように。
一本、二本、三本。穂香へ伸びる蔦は、瞬く間に数を増した。
「ほのちゃっ、」
「穂香ァ!」
渾身の力でソウヤの腕を振り払い、アカギは伸びる蔦に向かって発砲した。瞬時に別の蔦が鞭のようにしなり、別の隊員を弾き飛ばす。吐き出された酸がその隊員の顔を焼いた。絶叫が木霊する。
「あ……」
「オイ、今すぐ救護班回せ! 目の洗浄を優先しろ! グズグズすんな!」
あの隊員は、パイロットだ。あまり交流はないけれど、気のいい先輩だった。ソウヤの檄が飛ぶ。血相を変えて救護班が彼を引きずっていった。
当然だ。パイロットは目が命なのだから。
視力が落ちては、もう、飛べない。
「アカギ、別にあいつはお前のこと恨まないと思うけど。でも、これ以上飛べなくなる人作るのやめてよね」
冷ややかなスズヤの声が胸に刺さる。
煩わしいハエを追い払ったと言わんばかりに、白の植物は一度大きく身震いして穂香へ向き直った。幾本もの蔦が、頬を、首筋を、肩を、背を、愛しげに撫でていく。
ゆっくりと引き寄せ、抱き締めるような動きだった。走り出そうとしたアカギの腕を、今度はナガトが掴んで引き止めた。なにか言われたような気がするが、聞こえない。
それなのに、アカギの耳は小さな声だけを拾い上げた。
「アカギさんっ……!」
真っ赤に染まった瞳が、アカギを見る。目の前に迫る恐怖は見ていられないとばかりに、アカギだけをまっすぐに。
穂香の身体が白の植物に呑まれる直前、彼女は笑った。
いびつな笑みだった。微笑みとも呼べないような、ぐしゃぐしゃの顔だった。頬には涙の痕が痛々しく残っていたし、口の端は引き攣っていた。それでも、あの子は確かに笑ったのだ。
――たすけてね。
どうして、笑う。
笑うな。不安だらけの顔で、恐怖に囚われた顔で、強がるな。
泣いていたくせに。震えていたくせに。
そのすべてが、呑まれる。
睫毛を濡らしていたたった一滴の涙だけが、白の植物から逃げおおせた。
* * *
あまりの恐怖に、心臓が凍りつくかと思った。
あの人達を助けられるならと、自分から言い出したことだ。それなのに、外に出ると途端に恐ろしくなって、すぐに逃げ出したくなった。
こんなにも怖いだなんて聞いていない。知らなかった。知った風な口を聞いて決意したけれど、結局自分は分かっていなかったのだ。
逞しい腕に抱かれながら飛んだ空は、あまりにも冷たくて怖かった。あんな鳥は見たことがない。あんな犬は、あんな人間は、――あんな植物は、今まで、一度も。
不思議なことに「それ」は、けっして穂香を傷つけようとはしなかった。目が合った瞬間――そんなものがあるはずないとは分かっているけれど――、久しぶりの再会を喜ぶような震えが伝わってきたのだ。
巨大な白の化物は穂香以外の人間を次から次へと容赦なく排除していったが、穂香のことだけは傷つけなかった。
だが、怖い。
水が染み込むようにひたひたと迫ってくる恐怖に、息が上がり、歯の根が震えた。怖い。鳴り止まない銃声も、怒号も、目の前の化物も。
「いや、やだ、来ないでっ……」
こんなものに寄生されて、無事でいられるわけがない。
ここで死ぬのか。こんな化物に喰われて、死んでしまうのか。
やっと知ったのに。
やっと、家族を見つけたのに。
――やっと、
ぎゅうと強く目を閉じたそのとき、はっきりと聞こえたのだ。
何度も聞こえた。
何度も、何度も。喉が破れそうなほど、必死に穂香を呼ぶ声が。
柔らかい蔦の先が、頬に触れる。触れた瞬間、なにかがどっと流れ込んできた。「やっと会えた、愛しい子、私の子、かわいい子、やっと会えた」あまりにも優しい声に、くらりと頭が揺れる。
甘い腐臭が色濃くなり、茫洋とする意識の中、血を吐くほどに叫ばれる己の名前だけが穂香をこの場に繋ぎ止めていた。
恐ろしい化物はもう見たくない。声の先、やっと見つけたその人を静かに見つめた。
「……アカギさん」
ああ、怖い。
身体が呑まれていくのが分かる。頭の中に、重たい白い靄がかかる。
怖くて怖くて、もう、逃げたくてたまらないけれど。
「だいじょうぶ、だよね」
信じてもいいよね。
あなたなら、大丈夫だって。
「たすけて、ね」
かつて、穂香は夢を見た。
この世界において、なんの役にも立たない欠片のような存在である自分の前に、自分だけのヒーローが現れて颯爽と助けてくれる、幸せな夢を。苦しい世界から救い出してくれる、童話の王子様のような存在を。
意識が、溶ける。
それでも声は、途切れない。
すべてが呑まれる。
その瞬間、確かに聞こえた。
「っ、穂香ァアアアッ!!」
ねえ、信じてもいいよね。
――あなたは、私のヒーローだって。
【end*24】