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「あ、もしもーし。ドルニエでーす。例のデータ、手に入りましたよーっと」
『ご苦労。首尾は』
「あたしが失敗するとでも思いますー? 上々に決まってるじゃないですか。いつでも大丈夫ですよ、議長サマ」
『口を慎め、ドルニエ博士。――それでは、計画の実行を許可する』
「りょーかいしました。あ、ところであの約束、ちゃんと守ってくださいますよね?」
スピーカーの向こうで枯れた声が笑う。豪奢な椅子に腰かける老人の声だ。
『緑花院付きの研究員として、その研究所の頂点に立つ。――予算もお前の望むままに』
「くれぐれも、空軍の研究所に口出しされない立場の確立をお願いしまぁす。……ま、それじゃあ任務遂行してきますね」
腕時計を確認し、時刻を記録する。命令が下れば、あとは実行するだけだ。通話を終わらせようとしていたドルニエを引き止めたのは、意外にもくだらない戯言だった。
一瞬聞き流しかけたその言葉に、僅かに低くなった声音が問いかける。あの老人は、今なんと言ったのだろう。
『ハインケル博士はよいのか?』
「は? どういう意味か分かりかねますがー?」
『計画を実行するということは、あれを切るということだ。仮にもお前の実兄だろう?』
偉そうにふんぞり返っているだけの老人に「お前」呼ばわりされるのも不快だが、なによりも兄妹としての情を確認されたことが業腹ものだった。あの男と血のつながりがあるというだけでも腸が煮えくり返りそうなのに、そこに情などあるはずもない。
幼い頃から天才だなんだともてはやされ、それだけの実力があるにもかかわらず日陰で縮こまってばかりの臆病者。あの血筋の人間でありながら、彼の性格はまさに異端だった。どれほど褒めそやされても、震えながら「そんなことはない」と首を振る。――あれだけのものを、生み出しておきながら。
苛立ちに任せてキーボードを叩きながら、別のデータを呼び出した。モニターの右端に、タイマーの表示が現れる。
「あんな男、どうなったって知ったこっちゃないですよ。それより、もういいですよね?」
『ああ、好きにしろ』
「はいはーい。それじゃ、緑のゆりかご計画実行いたしまーっす」
パスワードを入力し、指示通りに指紋を認証させれば、静かにタイマーが動き始めた。
刻々と数字が減っていく。これがゼロになったとき、この世界はどんな顔を見せるのだろう。
ドルニエは笑う。楽しそうに。そして、歌うように言った。
――さあ、終焉を。
* * *
「なんでこんな……」
草木を分け入って突き進む山の中は、冬とはいえ緑が存在するはずの場所だった。しかし、進めば進むほど辺りには白が増えていく。これが雪化粧だったなら、どれほどよかったろうか。柔らかい雪の花が木々を飾り、地面を覆い尽くすその光景は、きっと美しかったことだろう。
「うわっ!」地を這う根に足を取られ、奏は前のめりに倒れ込んだ。膝を強烈な痛みが襲う。こんな風に盛大に転んだのは何年振りだろうか。擦り剥いた手のひらがひりひりと痛み、幼い頃の記憶を呼び覚ましていく。公園を駆け回り、小石に躓いてはすっ転んだ。あのときは、必ず誰かが助け起こしてくれた。注意不足を叱る母の手だったり、心配でおろおろとしている父の大きな手だったり、そこにいた見知らぬ誰かの手だったり。
けれど今は、誰の手も差し伸べられない。
奏はぐっと唇を噛み締めて立ち上がり、膝の土を払った。開いた手のひらは小刻みに震えており、じわりと血が滲んでいくのが見えた。ああまったく、笑えない。
目指すべき場所は、幸か不幸か白の植物が教えてくれた。迷ったら、より「白」が蹂躙している方を追えばいい。もうどれほど進んだだろうか。この山に入ってから最初の感染者との遭遇以降、もうすでに二人の感染者を薬銃で撃っている。
一人はこちらに気づいていなかった。だから、物陰から背中めがけて発砲した。もう一人はこちらに向かってきた。だから、真正面から発砲した。――二人目の感染者は、まだ子どもだった。小さな頭、小さな身体。ふっくらとした頬に浮いた葉脈のような痣が痛々しく、白目を剥いた双眸がこの世のものとは思えずおぞましかった。
まだ、子どもだったのだ。
気を抜けば砕けそうになる膝を叱咤して、懸命に進む。子どもだからなんだ。撃たなければこちらが死んでいたかもしれない。それに、撃ったからといって相手が死ぬわけではない。むしろ助かるのだ。この手で助けた。
「くそっ」
奇声を上げて倒れ込む子どもの姿が、頭にこびりついて離れない。悲痛を訴える声が、恨みがましげな眼が、崩れ落ちた小さな身体が、じわりじわりと呪詛のように奏を苛んでいく。
握り締めた薬銃が、あと何発の薬弾を残しているのかすら分からない。もしまた感染者に遭遇したらどうしよう。もし弾が足りなかったらどうしよう。不安はあとからあとから湧いてきて、留まるところを知らない。心臓を突き刺すような痛みが襲う。恐怖に喘ぐ呼吸はひどく耳障りだ。
「う、ああああああっ!!」
溢れそうな恐怖を薙ぎ払うように、奏は吠えた。闇雲に振り回した腕が、白く変色した葉を叩く。ガサガサと揺れる音に、ひしゃげた悲鳴が重なった。
「だいじょうぶ! あたしがっ、助けんの! やからっ、だいじょうぶっ」
無様に裏返る声を聞きたくなくて、冷え切った手で耳を塞ぐ。硬い薬銃の表面が肌を嬲ったが、それよりも己の指先の冷たさの方が不快だった。犬のように荒い呼吸を繰り返していくうちに、顎の先から雫が落ちるのを感じて奏は目を瞠った。
拭った指先に付着していた透明な雫に、鋭い痛みを感じるほど強く唇を噛む。
――ああ、そうだ。怖い。
未知の恐怖に、心が限界を訴えている。ともすれば狂いそうなほどの感覚に、頭から呑み込まれてしまいそうだった。
ならばあのまま、どこかへ隠れていればよかったのか。そう思うも、自分がそうできないことは誰よりもよく理解している。