どうか呼んで、 [ 3/29 ]

どうか呼んで、


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「ふざけないでよ……ねえ、どうして?」

 星空に吸い込まれるように声が零れた。指先に触れた感触がひどく冷たい。皮膚に触れる冷たさと、心に触れる冷たさが相まって視界が滲んだ。
 溢れてくるのは怒りか、それとも悲しみか。ぴくりとも動かぬそれを細腕に掻き抱き、じんと痛む目を数度瞬く。

「なによ、身代わりなんて……なんなのよ、それ! そんな勝手なこと許さない! なん、で……!」

 ぱたぱたと音を立てて雫が落ちる。堪えきれない嗚咽が喉の奥から漏れ出し、少女はひしと物言わぬ男にしがみついた。
 まるで、去り行く人をこの場に留めるかのように。――そしてそれは、真実なのだろう。
 痛くて苦しくて、もうなにも感じたくない。
 どうしてこの人はなにも言わないの。どうしてこの人はつめたいの。どうして、ねえ、どうして――

「ど、う、して……っ!」

 あなたがいない世界なら、私には必要ない。
 だから私も、いいでしょう?
 ねえ、やっと気づいたの。
 そっちで、ちゃんと伝えるから。

「――待ってて」

 ゆっくりと、少女は冷たい唇に口付けた。


+ + +



「………………」

「行ったらしばくからね」

 暗がりの中、ヘタレ公爵ことハルカがどんな顔をしているかなんて見なくても分かる。馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、まさかここまで馬鹿だったとは。
 座り心地の悪いパイプ椅子に身を沈めながら、アタシは舞台上に座り込む妹の姿をじっと眺めていた。
 金髪のロングウィッグを頭にかぶり、ぼろぼろのドレスを身にまとっている姿はなかなか似合っている。まあ照明の効果もあるんだろうけど。
 今にも立ち上がって叫びだしそうな――あるいはその場でのたうち回りそうな――ハルカを見ると、連れてこない方がよかったと思い知らされる。それも今となっては遅い話だ。
 妹の――茉莉花の高校の文化祭になんて、ほんっと連れてくるんじゃなかった。

 始まりは先週の木曜日、忘れもしない午後六時二十八分。
 茉莉花が隠してた文化祭のお知らせってプリントを、ハルカがたまたま見つけたって大騒ぎしてメールしてきた。文化祭なんてどの学校でもやるし、別に珍しいもんじゃない。ハルカの世界にある学校でも似たような行事があるし、そこまで騒ぐほどじゃって思ってたのが大間違い。
 茉莉花のクラスの出し物が演劇だった。それだけならまだしも――あろうことか、主役が我らがジャスミンだったのだから驚きだ。
 それを聞いてアタシもテンションが上がり、半ば強制的に茉莉花に吐かせて詳しい事情を聞いたのは別の話。

 内容は高校生が考えそうなB級、いやC級映画並みのラブストーリー。
 気の強いお姫様と、敵国の王子が送る禁断の恋を描いたロミジュリ風オリジナル作品だ。シナリオだけ見れば鼻で笑っちゃいそうな陳腐な品物だが、これが意外と『見れる』。
 それはまあ――ジャスミン姫の迫真の演技のおかげなんだろうけど。

「リィ……あ、ああああああれ!」

「なに」

「ジャ、ジャスミンちゃんが……!」

 王子役の男の子をひしと抱き締め、大粒の涙を流す茉莉花を指差して、ハルカが顔を青ざめさせる。
 観客は今までのどこかしらけた空気を取り払い、誰もが壇上に意識を集中させていた。身内の欲目じゃない。ここにいる誰もが、茉莉花の演技に目を奪われている。

「しっ。騒ぐな」

「だって……! このままじゃキ――」

「キスシーンあるって台本に書いてあったでしょうが。別にお芝居なんだし、彼氏でもないアンタがぎゃんぎゃん騒いでどうなんのよ」

 物語はクライマックスだ。台本によれば、このあと裏切りにあって死んだ王子に姫が口付け、王子に刺さっていた短剣で自らも胸を突いてあとを追うらしい。ほんと、これだけ見たら使い古されたありきたりなネタだ。
 これでお涙頂戴を狙ってるなら、シナリオ書いた生徒に一発気合入れてあげなきゃいけない。
 そうこうしてる間に茉莉花が男の子の顎にそっと手をかけ、顔を近づけていった。隣で赤くなったり青くなったり忙しそうなヘタレ公爵に、助け舟を出すつもりで言ってやる。

「あのね、どうせキスって言ってもフリだけ――、え?」

 ざわ、と一気に体育館内がざわめいた。あちこちでひそひそと耳打ちする声が上がる。

「うそ……」

 ねえ今の、本当にキスした――?
 どこもかしこも、聞こえてくるのはそのことばかり。さすがに驚いて放心状態になっていたものの、はっとして隣の男を確認する。まさかとは思うけど、このショックで失神してたりしたら……!

「ハル、カ?」

「……ねえ、リィ」

「な、なに?」

「マリカちゃんって、今までに彼氏いた?」

 どうしたの、コイツ。
 目が完全に据わってる。あっちの世界にいたときときどき見た、コイツの本気の目だ。この目のときには、アタシやリュカがなに言っても聞く耳を持たなかった。
 正真正銘、シンフォルズーア・リクター領公爵の顔。尾崎悠じゃなく、ハルカ・オザキ・リクターの姿をこっちで見るとは微塵も思っていなかった。
 それに加えて、『マリカ』だなんて。

「リィ」

「えっ、あ、そう……ね。いなかったと思うけど」

 幕が下り、会場を割れんばかりの拍手が包む。割れんばかりといっても、そんな大人数が入っているわけではないけれど。
 それでも予想以上の出来に感動した観客は多いらしく、誰もが口を揃えて「すごかったねー」と彼らの劇を褒め称えていた。
 幸いにも、周囲と醸し出す空気の違うアタシ達に気づく人は誰もいない。

「そう。マリカちゃんって、なんであんなに演技上手いの?」

「あの子、中学のとき演劇部だったのよ。……ねえ、ハルカ。アンタどうしたの? 言っとくけど、今回のことで誰にも文句言えないんだからね。アンタに怒る権利、まだないのよ」

「知ってるよ」

 今まで聞いたことのないくらい、冷静なハルカの声。
 そこでアタシは、なんで茉莉花が文化祭のことを隠していたのかようやく気がついた。アタシとしたことが、なんたる不覚。
 本当にキスシーンがあるから、アタシ達が――特にハルカが来るのを、あんなに嫌がったんだ。でもあの子は真面目で、一度やると決めたら意志をなかなか曲げない子だから、逃げなかった。フリで逃げようとはしなかった。
 今回ばかりは失敗した。明るさが戻ってきたところでハルカをちらっと見てみると、奴は悲しむでも怒るでもなく、ただ静かに幕の下りたステージを見つめていた。
 出口に向かう女子高生達がハルカを見て黄色い声を上げることが、今のハルカとひどくアンバランスで不可思議だ。
 今、あの幕の裏側では、茉莉花とクラスメートが成功を祝していることだろう。あの子は困ったように愛想笑いを浮かべながら、ハルカがいたかもしれないってことの不安に駆られているに違いない。

「あのさ、リィ」

「なに」

「――あとで一発、いや、五発くらい殴ってもらってもいい?」

「……はあ!?」

 コイツ、一体なに言い出すわけ!?
 あれだけシリアスに決めといて、最後はやっぱりそんなオチかと向き直ったアタシが見たのはいつものアホ面ではなく、さっきまでと寸分変わらぬ真顔のハルカだった。
 え、てことはなに。コイツ、本気で今の台詞を吐いたわけ?

「ちょっと、ハルカ?」

「絶対殴ってね。約束だよ。……じゃあ、俺ちょっとジャスミンちゃんとこ行ってくる」

「ハルカ!?」

 がたん、と大きな音を立てて揺れたパイプ椅子を置いて、ハルカがあっという間に出口へと駆けていく。呼び方はジャスミンに戻っていたけど、相変わらず目はあのままだった。
 ということは、つまり、これって――。



本当の恋物語は、ここから始まる


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