安いアパートの塗装の禿げたドアノブを回す。チャイムを鳴らしても返事は無かったが、多分この部屋の住民は許してくれると思う。ドアノブを回せば扉はいとも簡単に開いた。防犯は大丈夫なのかしらと心配になりながらも風丸は部屋に入った。
「おじゃまします」
シン。暗い玄関で靴を脱ぎ、玄関からリビングへの短い廊下を歩いても一人だけ。タイツ越しの床の冷たさに体が強ばった。
リビングに足をいれた。しかしあるのは静けさばかりで彼女は流石にちょっとした気味の悪さを感じた。午前の日の光に包まれた此処は静かすぎる。綺麗に片付けられている戸棚の物たちに嫌な予感を募らせながら、奥の扉を開けた。
「あ、おはよう。風丸さん」
いた。よかった。基山君はちゃんといた。笑顔で私を見てる。しかも布団にぬくまりながら漫画を読んで迎えてくれているのだった。
「昨日から風邪をひいてるって聞いたから来たんだけど」
「本当?嬉しいな」
「…本当に風邪?」
目の前のヒロトは布団に入っていることを除けば普段と何も変わらないように見えた。だから風丸がいぶかしげな顔をすれば、彼は読んでいた漫画を置き目を細めた。
「ウソ。風邪なんかひいてない。なんかだらだらしたかったからね、リュウジに嘘言っちゃったよ」
「サイテー!」
笑いながらそう言うと、リュウジには黙っててねなんてちゃっかり頼むものだからケラケラ声をたててしまった。全く、調子がいいんだから。
「折角、看病してあげようと思ったのに」
手に持っているビニール袋からアイスだとかゼリーだとかを取り出した。ガサガサという音がやけに耳につくように。
「え?本当?じゃあ今から風邪ひくよ」
「なにそれ」
本当に調子がいいんだから!と風丸がまたまた笑う。そしたらヒロトもつられて笑った。
「だって、風丸さんが看病してくれるんでしょ?俺だけの風丸さんになってくれるんでしょ」
「なにそれ!ヒロトったら恥ずかしいなあ!」
今日の私は笑ってばかりだと思いながら、今度はクスクスと含み笑い。流石にこれは伝染しなかったのか、彼は普通通りに戻っていた。普段の綺麗な表情。
「そんなにおかしい?」
「ごめん!でも俺だけって…あははっ」
ヒロトは困ったように微笑んでいる。
「そんなに変かな。やっぱり、好きな人が別の人を見てたら悔しいよ」
「男のロマン?」
そう言うと風丸はまた声をたてて笑った。彼女、今日はよく笑うなあ。何でだろう。これが男と女の感性の違いってやつかなとヒロトは思った。
「悔しいよ。だって、昔からずっとそうなんだ。みんなの父さんだったし、お日様園のみんなだって、独り占めなんか、無理だろ?」
ヒロトがそう言って風丸を見つめれば、彼女は笑い声をたてるのを止めた。健康的な色の指先を口元にやりうつ向き、ごめん。彼女は物分かりがよかった。
「君が謝ることじゃ、ないよ。俺、子供なんだよね。わかってる」
手元の漫画をパラパラめくりながら彼は言った。紙に触れる指先に彼女は何となくみとれていた。白い肌の白い指の先。基山の指先は見ていて不思議な感じがした。
「俺、昔から変なところが子供っぽいんだ。妙なとこで我が儘言いたくなるし、腹が立つんだよ」
「妙なところって?」
「だから、他の人と話してる、とかさ。そんなことでイライラするなんて可笑しいだろ?」
「…そうかな」
素直な感想だった。
「別に、そうとは思わないけど」
日当たりの悪い部屋独特の湿っぽさが部屋には漂っていた。肌に感じる冷ややかな空気の流れ。髪がしっとりと冷たくなる。
ヒロトは風丸をじっと見つめていた。赤い瞳の奥をじっと見た。なにかを考えている風だったから彼女はなにも言わず、身動ぎもしなかった。
「誰かを自分の支配下に置きたいと今でも思っているんだよ。変じゃないかい」
「そんなこと、ないよ」
風丸は脚をたたんでヒロトの斜め前に座った。薄いスカートがしわになっているが、彼女は気にしていないようだった。
腰をかけても寝ているヒロトを見下ろす形は変わらない。彼は意外と肩幅が広くしっかりした体つきだった。スポーツをやってるから当然か。しかし改めて気付いてみると少しびっくりした。イメージの彼は柳の葉の様な存在だった。
「甘えたいって、思うのは普通でしょ」
「でもそれは小学校に上がる前までだろ。そんな、この歳になってまで考えることじゃない」
「…じゃあどうして私に甘えるの」
そう訪ねた瞬間、彼は黙って、停止した。まるで電池が抜けたロボットのように風丸を見つめて固まった。まばたきもしない。大きく緑の目を開けて、戸惑いを停止のなかに浮かべていた。それが彼の慌てかただった。
風丸は彼の慌てる姿を初めて見たのだったけど、彼に何が起きたのかは当然分からなかった。けれども、何となく彼は言葉を探して黙っているように思えたのでやはり静かに待つことにした。ただ、じっと見つめられるのは恥ずかしいので目線は右へ左へと泳がせた。基山の部屋は簡素だった。
「好きだから」と声がしたのは千の秋のような少しの時間がたってから。パチリとまばたきをして瞳を潤ませる彼を見れば、微笑が返ってきた。
「やっぱり、好きなんだよ。しょうがないね」
「開き直り?」
「…まあそうとも言うね」
基山がへらりと言うと風丸はくすりと笑った。
「仕方ないな、ヒロトのお母さんになってあげる」
「え」
「昔のことは分からないけど、色々我慢してたんでしょ。いいよ。ヒロトの好きなだけ甘えてくれて。」
そう言って笑うと彼は頬をほんのり赤らめて「本当!?」と言った。可愛いなあと思った。
言うが早く、彼は布団から上半分だけ起きると、ぎゅうと風丸を抱きしめた。そうして彼女を布団の方に引き寄せると、バサリ。二人で布団の上に倒れこんだ。
「今日一日ずっとこうして過ごそう」
「ご飯はどうするの?」
「ん。お母さんが作って」
随分あっさり言ったなあ。別にいいけど。風丸は頭の中で思う。
「…本気で布団の中で寝て過ごす気?」
「当然だろ」
溜め息をひとつはあ、と溢す。そして抱き締めているヒロトの腕をほどくと、掛け布団の中に入った。隣の彼を抱き締め返す。
「今日だけなら許してあげる」
「ありがとう。おかーさん大好き」
全くいい歳したワカモノがなにやってんだかなあ、と思いながらも「私も」と小さく呟く。頬が熱くなって少し恥ずかしかった。
だけどまあいいよね。たまにはこんな日があってもね。
抱き締めたヒロトの体はとてもあたたかかった。好きな人と一日をこんな風に過ごせるなんて、幸せだ。ああこの後はどうしよう。きっと二人して気が付いたら寝ちゃうのだろうな。そうなったら、頑張って少し早く起きてヒロトの寝顔を見よう。彼の眠る姿を見終わったら優しく起こしてあげる。…そんな日があっても良いよね。
心地好い温もりに包まれながら目を瞑る。ヒロトの肌の感触。少しくすぐったい。そんなことを思いながら風丸は眠りに落ち、至福の時を迎えるのだった。

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