夜、眠れなかったので、なんとなくトイレに行きました。暗い廊下をひたひたと歩いていきました。そろりと電気のついていないそこに入ると、驚いたことに誰かがいました。吹雪です。吹雪の後ろ姿が其処にあったのです。彼は水道の鏡の前に立っていました。何をしているのかは分かりません。ただ俺は電気をつけないのは不便だと思ったのでスイッチに手を伸ばしました。そしたら「つけないで」と吹雪が此方を見ずに言いました。変な感じがしましたが俺は渋々それに従いました。
吹雪が何をやっているのか気になったので、近づいたら今度は「帰って」と言われました。でも俺は彼が何をしているのか気になったので、そのまま隣まで行きました。吹雪は顔の左半分を隠すようにしています。
「風丸君帰って」
「何してるんだよ?」
「帰ってよ」
「なんだよ。言えない事なのか?」
俺は吹雪の肩をつかんで此方を向かせました。その瞬間、甘い香りがどっとして、俺は後悔したのです。目の前の吹雪は、奇怪で、生々しい、なんとも恐ろしい姿だったのです。彼の首の左側部から左頬にかけて、深い緑の植物の茎だか蔓だかが、血管のように(実際それは脈打っていました。どくりどくりと波打っていたのです)、皮膚から生えていました。そして、彼の眼球にまで緑の茎の先はからんでいて、彼の左目からは毒々しいピンクの花が咲いていたのです。その花はまるで自らが彼の体の主であるかのように咲き誇っていました。
「…見たね」
俺は大声で叫んで走り去りたい衝動にかられました。しかしそうする直前に吹雪に腕を捕まれ、口を手で塞がれました。彼に生えている植物の甘くきつい香りがしました。
「駄目だよ。みんな起きちゃう」
吹雪は口元を上げました。
「あ…ふぶ…」
「風丸君、このこと、言っちゃ駄目だよ。…分かるよね?」
俺は必死で頷きました。
「うん。なら大丈夫だよ。…泣かないでよ。別に君を取って喰おうなんて思ってないんだから」
「…うん」
「君はこの事を誰にも言わなければいいんだからね」
「…うん」
そう言うと吹雪は俺を抱き締めました。俺はピンクの花の甘ったるい香りに吐きそうになりました。


さて、それから吹雪は俺と二人きりになると必ず「誰にも言ってないね?」と笑顔で尋ねてきます。俺はひきつり顔で頷きます。彼はそれを満足そうに見ると、俺の左手を握って言うのです。
「この手のね、指の先からなんだよ。毛細血管みたいな茎が生えるの。そうしてね、僕を締め付けるんだ」
彼の反対側の手が俺の腕から目尻までを上に向かってゆっくり触っていきます。彼と触れた所から順に俺の腕は陶器になってゆくようでした。
「最初は腕だけだった。それが段々上がってきてね、首にいって、頬にいって、瞳にいったんだ。次は頭かな…」
そして彼は俺の頭を撫でると、ふふと薄い笑みを浮かべました。その精気の感じられない微笑みに俺はまた、心臓を冷たい手で握られているような恐怖を感じたのでした。


吹雪は喋るなとは言いますが、俺が喋ったらどうなるかは言いません。しかしそれは俺の恐怖心を増幅するには充分過ぎました。もしかしたらすぐ今、俺はああなってしまうかもしれない。そう思うのは全く自然な事でした。吹雪は沢山を知っていますが、俺はそうではないのです。恐ろしい。俺が知っているのは、植物は徐々に体を侵食することと、夜だけしかも不定期に植物が浮かび上がってくることだけでした。


しかし何故でしょうか。俺は念を押される度に、逆にこのことを誰かに話したくなるのです。悪魔のような感覚が何度も俺に言えと囁くのです。嗚呼言えたらどんなに楽だろう!この先の見えない不安定な立ち位置に誰かと共にいられたら!しかし俺はその度に吹雪の冷たい肌の感触を思い出して、最後の一歩を踏みとどまるのです。
言ったら俺の身に何か起こるかもしれない。その非科学的な思い込みが俺をつかんで離さないのです。


吹雪の一番の友人は染岡です。俺は彼を見る度にどきりとします。彼は吹雪のあの姿を知っているのだろうか。そればかりが頭の中をぐるぐる旋回し旋回し、俺は染岡と顔を合わせられなくなります。染岡の挙動不審な俺に対する懐疑の目と、吹雪の優しい脅し。その板挟みになった俺はストレスで吐くようになりました。何処へ行っても吹雪の目が俺を見ている気がしてならないのです。最早、俺の身体を支配しているのは吹雪でした。俺の一挙一動は吹雪の監視下に有ると言っても過言ではないのです。俺の心臓ですらそうでした。


それは突然でした。吹雪が北海道に戻るというのです。彼の帰郷に表面では残念な顔をしましたが、心で俺は狂喜しました。解放された!もう、深夜間違ってもあの異様な姿を見ることはないのです!俺の身体が俺の元に帰ってくるのです!俺はあんまりにも嬉しくて、口がつい軽くなってしまいました。だから言ってしまったのです。魔の感覚に従い、夜中たまたま鉢合わせた染岡に、吹雪のあの姿のことを。
俺が言い終わった興奮に弾んでいると、染岡は突如蒼白な顔をし始めました。俺が「どうした」と聞いても首を横に振るばかりです。なんだろうと思っていると、ぞくり。顔の左半分に何かがうごめく感覚がしました。嫌な予感がしました。背筋がぞっと震えました。違和感は頬から眼球まで行き、ドクリドクリと俺でない何かが脈打つのが感ぜられました。嘘だ。しかしそれは確かな感覚でした。ぷうんと甘い香りが辺りに漂い始めました。恐る恐る手を左目に持っていけば、薄く冷たい物が手に触れました。濃い桃色が視界に入ります。俺は彼に言いました。
「…見たな」
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