「円堂君と別れたの。昨日。」
混雑がおさまった遅い昼のファミリー・レストランに基山さんの落ち着いた声が零れた。問題を解いていたノートから顔を上げれば、基山さんの翠の目とぶつかった。
「どうして。あんなに好きだったのに。」
「うん。好きだよ。円堂君。」
「じゃあどうして。」
「でも違ったの。」
基山さんは勉強の途中に注文した、コーヒー・フロートのバニラ・アイスを少しだけすくって口に運んだ。小さなスプーンで、小さくアイスをすくって、小さく唇を開いた。リップ・クリームの塗られた唇はほんのりとなまめかしかった。ほんの少しだけ白い歯が見えて、そして其処にスプーンが運ばれた。そうやって冷たい薄肌色のアイスを一口食べると、丁寧にスプーンを元に戻した。
「付き合ってみたら、お互い、逆に苦しくなったの。」
「うん。」
「それで、何か違うなって。」
「うん。」
「私達はお互い好きだけど、これは恋愛にはならない好き、だなって、気付いた。」
「…そう。」
「うん。これは友達としての好きだなって。」
基山さんはシャープ・ペンシルを転がして止めて、とを幾度となく繰り返し始めた。私はそんな基山さんをぼんやりと眺めていた。ただ罪な女だなとだけ思った。
「だから、昨日私から言ったの。別れようって。そしたら円堂君はうんって言ってくれた。だけどね、それに、でもこれからは友達としてよろしく、とも言ってくれたの。」
「そう。よかったね。」
「うん。よかった。でもね、」
基山さんには今までに何人もの男と付き合っていた過去がある。彼女は美人だから彼氏など簡単に集まってくるのだ。それを取っ替え引っ替えして、彼らを皆、憧れの円堂君の代わりにしていた。それなのに、円堂君は愛の対象じゃなかったなんてね。御愁傷様。可哀想な男達。
「でも?」
「また、ひとりで寝なきゃいけなくなっちゃった。」
「ああ…。」
基山さんは夜、ひとりで寝るのが怖いのだそうだ。昔は平気だったのだけど、お父さんがいなくなった日から怖くなったと彼女は言った。あれは確か、ショッピング・センターに二人で行った日だった。ショー・ウィンドウを眺めながら交わした他愛もないおしゃべりの一つだ。
「付き合う前は、円堂君がいればもう怖くないと思ったんだけど、違ったね。」
「そっか。」
白い指先はペンを転がすのを止めない。私は頬杖をついた。
「実はね、円堂君と一緒に寝たことないんだ。」
「寝なかったの?」
驚いて少し声が勢いづいてしまった。怖いから、と言って彼氏を家に泊まらせたり、その逆をしたりを幾度となく繰り返していたのに。
「うん。円堂君がうちに来たことも、円堂君の家に行ったこともないの。」
「ふうん。意外。」
ふう、と彼女は息を吐いた。
「ねえ、吹雪さん。だからまた、泊まって一緒に寝てくれない?」
「うん。いいよ。」
「ありがとう。」
上品に微笑んでから彼女は目線を少し下げた。顔に陰りが出来た。彼女はまるで月下に照らし出される花のようだった。この仕草に何人もの男が魅了されたに違いない。
基山さんはシャープ・ペンシルを転がすのを止めるとピンクの蛍光ペンを持ちテキストを読みはじめた。私もそれにならって問題を解き始める。店に流れるレトロな曲と、落ち着いたざわめきが聞こえ続けていた。
少したってから基山さんがぽつりと言った。
「私、嫌な女だね。」
「え?」
「円堂君と自分から別れた。」
私は上目で彼女を見ながら言う。
「無理に付き合うよりマシだよ。」
「でも、色んな人を円堂君の代わりにしたのに。」
「昔の話でしょ。関係無いよ。」
「そうかな。」
「そうそう。気にすること無いって。」
「……。」
基山さんはライン・マーカーを持った手を止めると、じっと飲みかけのグラスを睨んだ。グラスは凝結して出来た水滴で濡れていた。
「吹雪さんと寝るのだって、私の我が儘だし。」
「それは違うよ。」
かぶりを降った。
「前に言ったじゃない。死んだ弟と一緒に寝てるみたいで嬉しいって。」
「でも、」
「気にしなくていいから。」
基山さんはグラスを睨んだままだった。コーヒーに浮かぶバニラ・アイスは溶けて小さくなっていってる。グラスが冷や汗をかいていた。
「…私、駄目だね。まだお父さんから離れられないみたい。」
基山さんは視線を逸らさない。翠の目は一点を見据えていた。でも見てるのはグラスじゃない。
「お父さんがいなくなってから、夜が怖くなって、ずっとそのまま。」
「うん。」
「円堂君に憧れたのも、彼の何処かにお父さんを求めてたからかもしれない。」
「……。」
ほとんど手をつけていないグラスにストローを差すと彼女はやっとコーヒーを飲んだ。グラスの水位がするすると下がっていった。私もそれに合わせて抹茶・オ・レを口に含んだ。ほんのりと丸こい甘さだった。半分くらい甘いコーヒーを飲むと、彼女はストローから口をはなした。薄桃の唇がなまめかしいと私は思った。
「自分では純粋な一目惚れだと思ってたのにな。あーあ。残念。漫画みたいな恋だって、うかれてたのに。」
そう言うと、基山さんは綺麗に笑った。その笑顔は逆に儚げだった。私はその笑顔を知ってる。ふとそのことに気付いた。それは、写真立てのガラスに写る私に似ていた。敦也を思い出す私の顔、だ。
「吹雪さん。馬鹿って言って。」
「え。」
店内のざわめきに溶け込むような声だった。それは彼女の笑顔にとても見合っていて私はその分戸惑った。不思議な矛盾を感じた。
「お父さんしか好きになれない、ファザコンの馬鹿女って。」
少しだけ迷った。言うか言わないか。でも答えはすぐに出た。
「…基山さんの馬鹿。」
「ありがとう。」
「だから!」
私は基山さんに噛みつくように言った。静かに声を荒げた。そしたら彼女は目を広げて静かに慌てた。
「基山さんも、馬鹿って言って。私、弟離れが出来ないブラコンだから。」
「吹雪さんの馬鹿。」
「ふふ。ありがとう。」
そうやって笑うと、私達はまた問題を解くのを再開した。うつ向いて、ペンの引かれる音だけを発した。しかし、手を機械的に動かしながらも、頭では全く違うことを考えていた。
「どうして、幸せな恋愛が出来ないんだろうね。」
基山さんがテキストに目を落としながら言った。綺麗なメゾ・ソプラノが心地好かった。彼女のテキストをちらと見れば、書き込みの無いまっさらだった。
「他の人なら簡単に捨てれるのに、どうして無理なんだろうね。」
「わからないよ。」
「哀しみしかないのに。」
基山さんの赤い髪が垂れた。暖かい照明が逆に彼女を幽幻に魅せていた。彼女の唇も、乳房も、なまめかしくそこにあるのに空虚だった。しかしその分彼女は美しくなって、甘美な芳香を放っていた。
私も彼女も好きになる人を間違えたのには気付いている。寂しさの舐めあいの哀しさも知ってる。でももう遅いの。
「仕方ないよ。私はそれでも敦也が好きだもの。」
「そっか。」
「うん。」
私が頷くと、基山さんは泣きそうな様子で笑った。そうしてアイスがほとんど溶けてしまっているコーヒー・フロートをごくりと飲んだ。
「甘い。これはもう、ミルク・コーヒーだね。」
湿った唇から紅い舌が見えた。私達は今夜、お互いの温もりを其処にいない人に重ねて眠るのだろう。互いを慰めるように抱き締めてキスをするのだろう。どうしても哀しいけど、でもそれでいいんだ。
「勉強、続けよっか。」
基山さんの一言に、私はノートに広がってる消しくずを床に落として、次の問題を考えようとした。ぱっと落としたそれらは、今までに捨てた色々なもののなれの果てようで、背筋がスウッと冷えるのを感じた。
シャープ・ペンシルのカリリとした音。レストランのゆるやかなバック・ミュージック。今流れてるのはサティの Je te veux 。


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