成就されない恋を。









(♂主/忍卵/善法寺伊作/片恋)



僕の恋は、芽生えたときから始まることはなかった。
だって、僕たちは忍者のたまごなんだから。





「何も、あそこまで言うことなかったんじゃないか?」

君のことを好いているのに、という言葉は出さなかった。そんな言葉は彼の機嫌を損ねるだけだと知っている。

○は手裏剣を磨いていた手を止めて僕を見た。「あ?」といつも通りの不機嫌そうな声。別に不機嫌でもないはずなのに、彼の声はいつだって低くて乱暴だった。おまけに目付きも悪い。はじめこそ僕は彼に見られると怯えていたが、親しくなってから長い月日が経つ。さすがに慣れた。
○は数秒そのまま、まるで睨んでいるかのように僕を見ていたが、彼は先刻の出来事を思い出したようだ。「ああ」と音程を上げて声を漏らした。

「見てたのおまえか」

さも興味なさそうに返し、……実際に興味がないのだろう、○はまた視線を手裏剣に戻し手を動かした。

○は先刻くのたまから愛の告白を受けていた。○と彼女がたびたび一緒にいるのを僕は見かけていたし、○も彼女を気に入っていたようだった。
だからこそ、○がその告白に対しての返事を聞いたとき、彼女に向かった言葉の刄が僕の胸にまで刺さってきた。


『お前がどういう目的で忍術学園に入ってきたか知らんが、せめて在学しているときくらい勉強したことを全うしたらどうだ?忍者の三禁。せめて禁を犯しても隠し通すのが礼儀だろ。そういう気持ちが俺にあるんならもう近づくな。もう軽蔑しかできない』


正論だった。だからこそ痛かった。
忍者を志す者が集まるこの場所で三禁を犯すのは軽蔑の対象になっても文句は言えない。嫌われても仕方ない。しかも○は、忍者として己を極める意志が人一倍強い。忍者の三禁を重罪のように思っているはずだ。

目付きは悪いし言葉は乱暴で近寄りがたいし、刺々しい空気を纏っているのに、実は面倒見がよかったり、優しかったり、女の子の扱いを心得ていたり…困っていると助けてくれたり、する。その○の内面に気付いて心惹かれる者は多く、だからこそくのたまの恋心が集中するのだが、三禁を嫌う彼はすべてに軽蔑して、切り捨てた。
優しい人の厳しい言葉は根を張ったように抜けなくなるのを、彼は理解の上で言うのだろうか。

彼女はごめんなさいと残し、泣いて去っていった。○はすぐにその場を立ち去ったが、僕はそこに立ち尽くして、見えなくなるまで彼女の背中を目で追っていた。意中の相手から受けた痛い言葉に、脇で聞いていた僕よりも彼女はよっぽど深く傷ついたのだろうと思いながら。


○との会話はそれきり途絶えた。色恋の話なんて、○には必要も興味もなかった。












○の負傷を知ったのは、合同オリエンテーリングが終わった後だった。


「お、俺のせいっなんです…ッ!俺がっ…俺のせいで、先輩に怪我っ、させて……っ!」


○と組んでいた左近が、「俺のせいだ」と繰り返しながら眠る彼の傍で泣き続けている。
新野先生が僕に状況を説明してくれた。

「左近くんが崖から落ちたのを、●くんが庇って怪我を負ったようです。●くんのおかげで、左近くんに怪我はありませんでしたが…」

新野先生の視線を追って、僕も左近を見た。左近は頑なに○の傍を離れず、見るからに自責の念に駆られていた。

僕は更に、使用済の包帯や治療具が入っている屑箱を見た。昨日まで空だった中身が血に染まった包帯や布で溢れている。全部○の治療で使われたものだった。

こぼれ落ちた忍具が○の体を傷つけた、らしい。聞いた話だ。彼の逞しい肉体は鋭利な手裏剣でザックリと切られ、夥しい血が彼の体を赤く染めた。左近はパニックになっただろうに、保健委員のスキルを以て○に応急措置を施した。

○のペアが保健委員ではなかったらと思うとゾッとする。左近の忍装束に付着した血の量を見れば、相当な出血だったとはわかる。処置がなければ死に至ったことも考えられる。

新野先生が長屋へお帰りになった後も、左近はその場に居続けた。まだ二年生の彼だけを置いていくわけにもいかなかったから、僕も医務室へ留まった。でも、例え左近が長屋へ帰っても僕はここから動かないだろうと、予想はつく。

○の様子を見ようと、○の脇に正座する左近の隣に座る。すると、今だに拭いきれない混乱の言葉がかかってきた。


「すごく血が出たんです…っ、大丈夫ですよねっ…○先輩、死んだり……っしませんよね………っ!?」


静まっていたはずの涙が喋るほどに漏れる嗚咽を荒くした。取り乱している彼に掛ける言葉は限られる。大丈夫だよ、と、僕は繰り返した。その言葉を自分にも言い聞かせた。

まだ幼い左近の体を抱き締めて、小さな肩や背中や、頭を撫でてやる。怪我を負ったのが○ではなくても、左近はこんなに震えただろうか。答えが分かり切ってる問い掛けがなぜか出てきた。
目を閉じて、僕は噛み締めるように心で唱えた。



(後輩が、君のためにこんなに悲しんでいるじゃないか……)


ねぇ。早く起きてよ、○―――。










静寂が聞こえる。
夜がだいぶ更けた。

忍たまといえど、まだ成長期の盛りの左近に深夜はつらい時間帯だろう。長屋に帰すといかなくても、睡眠は取らせなくては。幸いに医務室だ。患者用だが布団はある。
僕は時間をやり過ごすための薬の調合を中断した―――どちらにせよ、左近と同様に僕も○が気になって調合には集中できなかった。だからその作業に求めてたものは得られなかったけど―――。それまで使っていたものを隅に追いやり、○の傍でじっと動かずにいる左近に近付いた。


「左近、そろそろお休み。○は僕が見ているから」

「だけど…○先輩は俺のせいで………」


時間の経過のためか、睡魔のせいか。左近はだいぶ落ち着いた。重そうにしている目蓋を必死に起こしているが、ずいぶん眠そうだ。いつもならとっくに夢の中なのだから仕方ない。
左近が安心できるよう、僕は笑顔を浮かべる。作り笑顔をする余裕は存外あるようだった。


「大丈夫。心臓は動いてるし呼吸もちゃんとしてる。後は目が覚めるのを待つだけだって新野先生もおっしゃっていた。○が目覚めたときに左近が倒れたら元も子もないだろう。………な、ここで寝ていいから」


頭を撫でてやって、どうにか安心させようと試みる。左近は小さく「はい…」と返事をした。素直に聞こえるその言葉はとても軽く聞こえて、本心が別にあるのだとは気付いた。だけどやはり、その気持ちよりも睡眠という本能のほうが勝る。

なるべく○の近くに布団を敷いてあげた。左近に寝るように促すと、彼はのっそりと立ち上がった。やっぱり相当眠いんだ。
布団に入った左近の額をそっと撫でてやる。


「大丈夫だから………ゆっくりおやすみ」


重い目蓋は寝たくなさそうにしていたが、やがて眠りに落ちた。二人分の寝息はなんとなく温かく、僕は張り詰めていたものが解けるのを感じて浅く息を吐いた。


(○…早く起きて)


心配してるのは僕だって同じだ。君が起きなかったら狂ってしまいそうだ。そんなことを匂わせるような言葉すら、誰にだって言えないけど。


「○…」

蚊の鳴くような声で名前を呼ぶ。たまらなくなって○の布団に近づいた。暗がりの中できれいな顔が頼りない明かりに姿を見せている。

いつもなら触れることが出来ない君。
誰も見ていない今なら、この気持ちを吐露してもいいかい…?

さらさらの髪に触れる。
ドキドキした。
○という存在が僕には言いきれないくらい特別で、指先が彼の体温に触れてそれがとめどなく溢れるように膨らんだ。
いつもなら明るい雑踏に誤魔化して自分を押さえ付けられるのに。
夜だからか、静けさが自分の気持ちを鋭敏にさせてるようだった。


男なのに、筋肉のついた逞しい体なのに、スタイルの良さと白い肌のせいで時折崩れそうに見えることがある。
しかも大量の出血で、今は仙蔵よりも顔が青かった。

死、と。

そんな単語が浮かぶ。


回復するとはわかっている。時間が経つにつれて生きている感じを察せられる。科学的根拠はないけど、経験で勘は鋭くなったんだ。
だけど、○は時々死の淵を歩いているような気がする。否、もしかしたら常に。それは僕の恋情の作用で、○をどうしようもない程に遠く感じているからかもしれないけれど。


ふと、思考。
目は○を見つめすぎて焦点が合わなくなってきた。その視界の中に○を収めたまま、何処か冴えている部分が囁くように僕に自覚を促した。

もうすぐ、卒業………。


何かに操られるように、意識の外で手は動いた。布団から○の手を抜き出して脈を読み取る。○の鼓動を感じたかった。生きているという具体的な証拠を知りたかった。目を閉じて指先だけに意識を集中させると、○の手首の中で小さな波を感じた。
手は温かかった。
目蓋を開けて、空いた手で○の手に触れる。僕とは違う痛み方をした、血豆とそれが潰れた手のひら。努力の手だった。水や薬草のせいでガサガサになった手で、祈りを込めるように握る。


ほんの少し。
誰も見ていないこの垣間だけ。


「―――…」


僕は○の手に接吻した。

どうか、これでこの恋が最期になりますように。

もう二度と○への想いが心の外へ出ないように願いながら、
(されど、消滅させることは心を殺しても無理であろうと、どこかで感じながら)

僕はまるで今生の別れをするかのような気持ちで、そっと○の手を布団の中に戻した。