棘をからませ酒吐息
(♀夢/英雄学/瀬呂範太/プロヒーロー)
「熱心だったので、ついて行こうと思い始めたところでした」
ぽつりと落ちた言葉は静かだったけど、ヤケクソになってるのがわかった。
ナンパについて行こうなんて、相当な遊び心がある時か、自分に投げやりになってる時だ。事務所でたまに顔を見かけるこの事務員は、明らかに後者だった。
「やめとけって。案外こういう何気ないところから事件に巻き込まれたりすんだから」
「じゃあ瀬呂さん付き合ってください」
本名の方を呼ばれ、「この子俺の顔と本名覚えてたのか」と少し意表をつかれる。
瀬呂も彼女と同じく、仕事から上がって帰路についているところだ。断る理由もなく、駅までの道中にある居酒屋に二人で入ることにした。
半個室の席に通され、適当に酒とつまみを注文する。賑やかに話す感じでもないだろうと思い、すぐに食べられるものを選んだ。ファーストドリンクと共に枝豆が来ると、「お疲れ様」と声を掛け合い、互いに口をつける。ビールの喉越しを味わってすぐ口を離した瀬呂に反して、彼女はぐびぐびと一気に半分以上を減らした。ジョッキを置くとぱくぱくと枝豆を剥いては口に放っていく。彼女よりは落ち着いたペースで瀬呂も枝豆をつまみつつ、たまにビールに口をつける。
「浮気されたんです。しかも私の部屋で」
突然のカミングアウトに瀬呂が硬直すると、「お待たせしましたー」と店員が入ってくる。テーブルに唐揚げとだし巻き卵が並ぶ。ごゆっくりどうぞ、と言う店員に二人でぺこりと頭を下げた。
「唐揚げにレモンかけてもいいですか」
「あ、どぞ」
返事を聞くなり、彼女はくし切りのレモンを全体に絞る。おしぼりで指を拭くと唐揚げをひとつ取って齧ったが、「あつっ」と噛みきれずに唐揚げを取り皿に置く。口の中に脂が跳ねたのか、ビールをグビリと飲んだ。瀬呂もだし巻き卵に大根おろしを乗せ、一口取った。
互いに酒を進めながら話を続ける。
「あー、そりゃ……災難だったね」
「はい。別れました」
「判断早いね」
「そりゃ、彼女の部屋に別の女連れ込んでやることやってる奴なんて極限にキモいですから」
「え、部屋で浮気ってそういう? うわマジか」
「ありえないですよね」
「なんでわざわざ●さんの部屋でしたの?」
「浮気相手の職場が近かったんですって」
「うわキッツー……あー、それで帰りたくなかったんだ」
「そうです」
「合鍵渡してたんでしょ? 鍵替えた?」
「鍵もシーツも替えました。でもあの人たちが私の部屋でした事実は残ってるじゃないですか。帰りたくないんですよね。切実に引っ越したいです」
「そりゃ気分も変えたくなるわ」
「追加頼んでもいいですか」
「どうぞ」
そこで一度話は途切れる。彼女はジョッキの残りをぐいと飲み切った。タブレットを操作する彼女をわき目に、瀬呂は箸を進める。
「瀬呂さんもおかわりしますか?」とタブレットを向けられたので、瀬呂も酒を一杯追加した。
タブレットをスタンドに戻すと、彼女は箍が外れた声で「はぁーーーー」と盛大な溜め息を吐いた。ジョッキに蓋をするように両手を置き、額を置いて俯く。
「本当に最悪ですよ。マジで殺意湧く。カップルの刃傷沙汰のニュースのこと、もう笑えないです。瀬呂さんは彼女いますか? 浮気とか絶対しない方がいいですよ」
「だなぁ。ちな彼女はいないっす」
「何よりですね」
「いや欲しいんだけどねこれでも」
「じゃあ一個アドバイスしときますけど、寂しいと浮気するタイプはやめといた方がいいです。浮気しても人のせいにしてきますから。だったら別れてから鞍替えしろっての。キープとか……ああああ腹立つ」
怒声のようなうめきを漏らして、彼女は頭を抱えた。しかし追加注文が運ばれると、頭を上げて店員にぺこりと会釈をした。到着したカクテルをぐびと一口飲むと、手早く焼きそばを二人の取り皿に分けて即食べ始める。
瀬呂も分けられた焼きそばに口をつけた。
(めっちゃ愚痴ってるのに店員にいちいち丁寧でテキパキ動いてんの、おもしれーな)
その後の会話のほとんども、彼女の元彼に対する愚痴だった。たまに軌道修正しようとしてか、仕事の話に流れることもあったが、社交辞令らしくすぐ元の話題に戻る。
「すみません。あんまり話したことない人にこんな話」
と、たまに申し訳なさそうに謝られる。話したことがないからこそ気楽に聞き流せるところもあるので、それをそのまま伝えた。
話の区切りのたびに、彼女は「帰りたくない」と心底恨めしい声で呟く。卓の上の料理はもう残り少ない。
「んじゃ、うち来る?」
瀬呂の提案に、彼女は動揺して瀬呂を見た。戸惑って口をまごつかせている彼女を見て、瀬呂は「はは」と笑う。
「さっきのナンパにもそんくらい警戒してな」
彼女は返事をしないまま、視線を卓に落とした。
それなりに腹も満たされたところで、店を出ることにした。
「俺バスだけど、●さんは?」
「電車です」
「んじゃ駅まで一緒だ」
彼女は強い酒を選んで飲んでいたが、口調も足取りもしっかりしていた。酒が強いタイプなのかもしれない。
「明日何時から?」など他愛のない会話を往復させてるうちに駅に到着する。バス乗り場は駅のロータリーにあるので、瀬呂は駅に入らない。
駅の入り口までの分かれ道に差し掛かって、瀬呂は歩調を緩めた。
「じゃ、俺あっちだから。帰り気ぃつけて」
「……瀬呂さん」
「ん?」
目視で改札まで見送ろうと思っていたのだが、彼女の足が止まったので、瀬呂も足を止めた。しっかりと前を向いて歩いていた彼女は不意に瀬呂を向き、無表情で言った。
「やっぱり瀬呂さんの家に行ってもいいですか」
呆然。
瀬呂は言葉を失い、どう答えようかと戸惑う。その間も彼女が発言を訂正する様子がなかった。
ああ、マジなやつか。そう息を飲むと、瀬呂は答えた。
「いいよ」
ーー
「バスを降りてからコンビニありますか」
「ああ、ある」
「お邪魔する前に寄りたいです」
バスの中では、それ以外は特に何も話さなかった。
彼女は窓の外を眺めていたし、瀬呂も無理に場を盛り上げようと思わなかった。
バス停のアナウンスが流れた時に瀬呂が停車ボタンを押すと、彼女はチラリと瀬呂の手元を見た。
同じバス停で降りたのは瀬呂と彼女の二人だけだった。
住宅街は閑静としていて、道の先に見えたコンビニだけが寂しく煌々としている。入店すると客が二、三人店の中を歩いているが、話し声はない。
彼女はまっすぐ衛生用品のコーナーに向かった。歯ブラシやスキンケア用品など、宿泊に必要なものを籠に入れていく。
「あ、俺んち飲み物とかないわ。一緒に買っちゃっていい?」
「どうぞ」
ドリンクが並ぶ冷蔵庫の前に立ち、瀬呂は五百ミリペットボトルの緑茶を取った。彼女もジャスミンティーを一つ籠に入れる。そのままレジに向かった。
「袋入れますか?」
「いりません」
「ポイントアプリはお持ちですか?」
「はい」
「お支払い方法は」
彼女が答える前に、瀬呂が電子決済を指定した。
えっ、と彼女が瀬呂を見上げる。
「俺バッグないから、俺のも入れてもらっていい?」
言いながら、瀬呂はスマホの決済画面を端末にかざした。決済完了の電子音が鳴る。彼女は慌ててトートバッグの中に買ったものを詰め込んでいった。
先にレジを離れる瀬呂の背後で、彼女が店員に言う。
「レシートください」
店を出ると、彼女は瀬呂の隣に並んだ。
「すみません。私、瀬呂さんと同じ決済アプリ入れてなくて。お家に着いたら現金で返します」
「いいよ。俺のも買うついでだから。荷物持たせてるし」
「でもほとんど私の買い物ですから」
「んじゃ今度コーヒーでも奢って」
瀬呂のアパートに到着すると、彼女を先に通した。部屋の中を見た彼女がは、わ、と短い声を漏らし、鼻がすんと鳴る。
「部屋がオシャレ。良い匂いするし」
「ディフューザー置いてるからそれかも。入って入って」
「お邪魔します。洗面所借りても良いですか?」
「どーぞ。そこの右のドア」
彼女が洗面所にいる間に、瀬呂は部屋で捲れたままのベッドを直して、歪んだクッションを整えた。ハンモックチェアに腰掛け、ふと考える。
(風呂……どうすんだろ)
あまりよく見ていなかったが、シャンプー類は買っていただろうか。仮に石鹸類は貸すとしても、今の服のまま寝たらシワになるだろう。いや、それもいいのだ。そういうことではなく。
部屋に女子を招いたことはあっても、泊めることは初めてだ。瀬呂にその辺りの作法の心得はない。
彼女のいる洗面所から水の流れる音と、うがいの声がする。
なんとなく、後ろめたい気持ちになってきた。
彼女は洗面所から出ると、瀬呂のいる部屋を見た。ローテーブルの上に何もないことに気づき、あっとバッグを漁りながら部屋の中に入ってくる。
「瀬呂さんの飲み物、私が持ってるままでしたね。すみません」
「ああ、うん」
「瀬呂さん、コーヒーよく飲むんですか?」
「へ? なんで?」
「いや、この分コーヒー奢らないと」
彼女は自分のジャスミンティーを見せながら言った。
そういやそんなこと言ったな、と上の空で頷く。
「瀬呂さんの部屋、オシャレですね」
「ああ、うん。部屋作りとか結構好きなんよな」
「素敵ですね。私は統一感とか考えないから部屋がごちゃつくんですよね」
パキッとペットボトルを開ける音。ジャスミンティーが彼女の喉を流れていく。彼女に倣って瀬呂もペットボトルを開けた。
「あの、ご迷惑ついでに、瀬呂さんの後で私もシャワーいただいてもいいですか?」
「ああ、全然。てか、寝巻きとか普通にTシャツでいい? たぶんサイズ合わないと思うけど」
「ありがとうございます。お借りできるだけ助かります」
「んじゃ俺、先入っちゃうわ」
箪笥の中からTシャツとジャージとタオルを出して、彼女に渡す。
何もない。何もない。だって同僚だもの。
そう考えて煩悩を消す。しかし、男女が夜を迎えて同じ屋根の下、シャワーを浴びたらその後は……と想像は際限なく湧く。
ここにきて、あの子結構かわいいよな、なんて今まで意識しなかったことを思う。
そっちの方にばかり頭が働いてしまい、瀬呂は体の中心が順当に熱を持ち始めていることを自覚した。
(……やらかす前に抜いとくか)
この後彼女も同じ浴室を使うことを考えると、それもまた後ろめたい行為な気がするが、うっかり同僚に襲いかかるよりマシだ。