擬似喪失。:混じる音。






 ◎をベンチに座らせると、勝己はとりあえず自宅に電話をかけた。電話に出た光己は帰宅が遅い勝己に叱責を浴びせたようで、「うっせえ時計くれえ見てるわ!」と怒鳴った。怒り口調のまま◎が起きた旨を伝えると光己の様子も変わったのか、応対する声の荒っぽさは収まっていく。会話を二、三往復すると、おら、と◎に携帯を渡した。受け取り、耳に当てるまでの間に勝己は◎の隣に腰掛けた。

「もしもし」

『◎?あんたいつ起きたの?今どこで電話してんのよ』

「さっき」

 病院の向かいの公園にいること。見舞いに来てくれていた勝己がいるタイミングで目が覚めたこと。鎮痛剤のお陰で今はあまり痛みがないこと。歩くことには不便がないこと。問いに答える形で状況を光己に伝えた。

 やがて「ああ…うん、そうね」と告げた後耳を離した。話を締める言葉にしては曖昧に思えたが、勝己は携帯を取り戻そうと手を伸ばす。◎の親にも連絡しなければならない。だがそれを取る前に、◎は「待って」と携帯を持つ手を引き寄せた。

「お母さんたち呼んでくるって。まだ電話繋がってる」

「はあ?直接掛けりゃいいだろ」

「勝己、お父さんとお母さんの連絡先知ってる?」

「知ってるわ」

「え、あ、そうなの?なんだ」

「おいてめ」

 ああ…うん、そうねの言葉が、勝己が二人の連絡先を知らないと思った故の回答だと理解した。随分と抜けた認識をされていたもんだと苛立ちの声を上げると、◎はごめんと小さく笑った。クソと座り直し、広げた両腕を背凭れに掛けた。


 実際の心情はわからないが、光己と話しているうちに◎の話す調子は聞き慣れたものに戻っていった。恐らく光己は深刻な労いの言葉をかけていないのだろう。
 つい先程までペースを乱されていた自分を振り返る。思えば今日は情けない有様だ。学校ではうるさい切島をあしらう事すら億劫で、実習では八百万に主導権を握らせたし、挙げ句の果てには出久に心配されてしまった。

 平素思考が及ばないところまで想像が伸びたが、結果◎は目が覚めた。現状に気持ちを乱していたものの、少なくともいつも通りに話せる状態になってる。


 なんだよ。


 自分だけが振り回されたようだ。面白くない。不貞腐れて唇を尖らせた。

 ◎が膝の上で携帯端末を傾けたり水平にしたりするのが見える。潰しようもない束の間の暇を持て余す緩やかな動きだ。ふんぞり返って座る勝己からは◎の顔に巻かれた包帯だけが見えて、その目線はわからない。沈黙の中で互いが言葉を探る。しかし、言葉ならざる静けさが一番馴染むとも感じた。

『◎…?』

 やがて電話口の向こうから声が聞こえた。恐る恐るの声色は◎に似た音で、母親だとわかる。


「うん。……おはよう?」


 はにかむような歯切れの悪さで言う。次に向こうから聞こえてきたのは息を呑む間だった。やがて高く抜け始めた息が、喉で搾り出される声になる。泣き声を出すまいとする長い吐息の中には時折抑えきれなかった嗚咽が混じった。息継ぎで声が途切れ、言葉になる前の音が一つ発せられては、情けないしゃっくりが言葉を消す。


「お母さん」


 泣かないでとは言えず、私は大丈夫とも言えず。それほど心配をかけてしまった申し訳なさと、話せなくなるほど思い詰めてくれていた親心。それらを感じて、ただ呼んだ。向こう側にいる母の姿を思い浮かべて。母の嗚咽はひどくなった。電話口から離れた勝己の耳にも届くほどに。


 弱々しくて触れ方もわからない◎を前にしたのも初めてだが、意思決定力の塊である◎の母親が言葉を発せられないほど大泣きをするのも初めてだ。大人なのに、こんなに情けなくていいのかと心配するほど子供のように泣いている。

 ◎の声を聞いて荒れた嗚咽が止まるのをじっと待つ。自分が眠り続けている間の状況を知らない◎は、それほど泣くことだったのかと、自分の不在を想像した。先ほどの勝己を思い出し、心の内では彼もこれくらい掻き乱れていたのだろうかと視線をやる。

 ◎の視線に反応して互いの目線が合う。未だ言葉を紡げない母の電話をどうするかの困窮かと思ったが、向けられたのは勝己自身の反応を確かめるような眼差し。


 ……もしや、みっともなく泣き崩れている母の様子から、勝己の心情を察そうとしているのか。


 瞬間に眉間が強張る。冗談じゃねえ。勝己は◎から電話を奪った。


「メソメソうっせんだよババア!喋れねんなら電話の意味ねえだろうが!」

『ひぐっ…だ、だって…っ、ううーーーっ…』


 電話口で声だけを聞くと、◎の声に聞き違えるほどだった。血の繋がりに驚きながらも、◎が堰を切って泣いているように聞こえて勝己はうっと口を噤む。咄嗟に顔を上げて◎を見る。その顔に今は涙がないことを確かめると、ずいと電話を突き返す。◎はそっと電話を受け取る。勝己はまた背凭れに腕を広げて、首を暗い空に向け、気怠げに脱力した。目には瞬き始めた星が見え、耳にはまだ泣き声が聞こえる。


(うるせぇな)


 目を硬く閉じて、耳から意識を遠ざけるために胸の内に言い聞かせる。



 ……いま、隣に◎がいる。目覚めて直ぐ、勝己を認識して話をした。病室を出て外を歩いた。時たま勝己をみくびった態度で腹を立たせるのも、以前の通りだ。

 そう。以前の通り。◎の母が泣いているのは、◎の目覚めを知ったばかりだからだ。勝己にとってはもう揺さぶられることではない。

 ―――わかっているのに、耳の奥で、風鈴が揺れる。不安定に吹いていた風は◎の目覚めでようやく止んだ。それでも短冊はまだ不安に揺れる。勝己は瞼の中で、◎がここにいる事実だけを見る。風鈴を鳴らす強い風が再び吹かないように。


 神経を研ぎ澄ませて、耳に届く泣き声を遠くにやる。

 お母さん、と◎の声がした。か弱さと柔和の混じった頼りない声。微笑みの声に、勝己は瞼を開いた。


「私、意外と大丈夫だから。少し変な感じするけど鎮痛剤打ってもらったし」


 言葉は明瞭に紡がれた。勝己の強さに続かんとする穏やかさだった。

 ……意外と大丈夫と言ったか。勝己は思わず◎を見やる。ついさっき、自分の顔の有様に泣いたくせに。
 勝己の視線に気付いた◎と目が合う。互いを見つめながら◎は二言三言会話を続けた。



「……うん。起きたら勝己がいたから」



 包帯で顔が隠れても、声と瞳で微笑んでいるのがわかる。ふ、と温かい風が触れていった。

 その柔らかさに相応するものが己の中に見つからなくて、勝己は目を逸らした。




 ―――…何もしてねえよ。




 無力さを擁護されるような、釈然としない気持ち。胸の内側が指先でカリカリと掻かれる感覚がした。悲惨な怪我を知るより先に、目覚めの初めに勝己を見とめたことは、◎にとって救いだったのかもしれないけれど。

 その怪我がなければという傲慢な願いが、己の何もできなさを浮き彫りにする。



 これから付き添いの荷物を持って病院に行くという話の往復の後、電話は勝己に戻された。電話口は光己に変わり、光己の運転で◎の両親を病院に送った後、帰りに勝己を拾うと伝えられた。了承して電話を切る。

 沈黙の中で、ぐす、と鼻を啜る音が聞こえた。ギョッと◎を見ると涙ぐんでいる。電話口では平気そうに話していたのに。
 勝己と目が合うと、俯いて笑い声を漏らす。


「もらい泣きしちゃった…お母さんすごい泣くんだもん」


 浮かんだ涙を誤魔化すように言い訳を並べる。止めようとする意思に反して、俯いた目から一雫落ちた、気がした。暗くてよく見えなかったけれど。


「本当に、意外と大丈夫なの。でも、なんか不安の余韻とか、安心とか、いろいろ」

「うっせえな。泣くか強がるかどっちかにしろや」

 泣かれっとムカつくんだよ、とは言わなかったが。
 騙しきれない誤魔化しならしないでくれた方がいい。

「強がって…」

 ない、と続くであろう言葉は消えた。冷たい風に吹き消されるように。
 しん、と耳が静かな風を聞く。音などない、冷たくて優しい風が耳を撫でた。



「じゃあ、ちょっと泣く」



 宣言すると、思ったよりも涙は流れなかった。油断して泣くことが許された何もないこの時間が存外◎の心を落ち着けさせた。

 その空気に徐々に心が溶け始めた後、また思い出したように涙が溢れて小さく鼻をすする。水の影が明るくなったり、濃くなったり、そんな波のように感情が揺れる。流れる水は決して同一の景色を作らない。それを正確に予測できないように、止めようとしても止められない感情をただ己の中で流した。

 静けさが時間を緩やかに流している。公園内の遠くの木々が、暗い空の前でシルエットを浮かべている。耳を澄ませると鳥の声が聞こえた。





 ◎が動くのが見えた。座ったまま振り返り、ベンチの背凭れに広げた勝己の腕を端から見やる。一瞬目を伏せた後、自分の後ろにある勝己のブレザーの二の腕を掴んだ。軽く引っ張られる感触に、猫が乗ってくる感覚を思い出した。



「勝己」

「あ?」

「ぎゅってして」



 子供じみた言い方に面食らう。◎からそう言われるとは思っていなかった。触れるのを求めるのはほとんど勝己からで、それも目的は◎の“個性”だ。

 勝己にとって意味のないこと。何を言われたのか考える間がほんの数秒。直後、勝己は腕を下ろしてベンチから腰を上げた。ローファーがアスファルトに散る砂を踏む音がザリと聞こえる。自分の正面に立った勝己を◎は見上げる。

 右の掌を上にして、立て、と自らの方に一度仰ぐ。ジェスチャーに従い◎もベンチから腰を上げた。戸惑うほど目の前に勝己がいて少し構える。触れないながらも、互いの動きが空気を伝わる。相手の体温すら感じる気がした。

 一歩踏み込み、勝己は◎の腰に腕を回した。くん、と引き寄せられ、◎は勝己の腕の中に収まる。体の前面が相手に触れ、そのままじっとしてると鼓動が伝わってくる。ぱちぱちと、◎は数度瞬きをした。

 勝己の体は温かく、腰に回った腕は力強く◎をとらえる。互いの体温が混じって馴染むと、ここだけが確かに揺るぎない安寧の場所だと、体の緊張が取れていく。緊張などしていなかったのに。余計なものが一切剥がれ落ちていくのを感じた。


 心が裸になっていく。無防備な安らぎを感じた。
 そしてふと、ああ、そういうこと、と◎は理解した。





―――手を

(握って欲しかったんだけど……)



 疑問に思いながらも逆らわなかった現状。その真意に今更気づく。勝己には、抱きしめて欲しいと言ったように聞こえたのだろうか。

 でも、まあいいか。
 手を握るより、きっとこの方が心地よい。


 一粒、砂時計の砂が落ちる。水が溜まるのを待つ雫のようにゆっくりと。もしかしたら、砂は落ちていないのかもしれない。浮遊して揺蕩い、時間を放棄する。それでもゆるやかに流れてはいるけれど。
 呼吸が、その中に溶けていく。寝息のように穏やかな自分の呼吸音が耳をほぐす。そして聞こえる。勝己の音も。





 ―――勝己がいてよかった。
 ずっと漂い続けていた僅かな安堵が、心の中でそう言葉になった。





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