純潔の鍵が落ちる






(♀夢/英雄学/爆豪勝己/パラレル/小ネタ「シスター」より/微エロ)



 閉じ込められた。

 週末に行われるフリーマーケットのために、出品物を発掘しているところだった。物置にしている古びた納屋はいつも閉め切られていて、年末の大掃除でもろくに手をつけない場所だ。開け放たれたドアを見た誰かが、気を利かせて錠をかけたのだろう。そう想像することは容易い。しかし、町中に知らせているフリーマーケットを控えているこの時なのだから中に誰かがいる可能性くらい考えて欲しいものだった。とはいえ、こんな場所から発掘されたものなど、どれだけ安価であろうと買う気が起きないのも確かである。

 錠は年季の入った単純な掛けがね。それでも中からは開けられようもない。古い木製のドアだから蹴破れば壊れるに違いないが、その後のことを考えると面倒だ。開かずの間になりかけている納屋でも常時開け放しておくわけにいくまい。ドアの破壊は最終手段にしておくことにして、今は無難な脱出方法を探していた。
 そう思い、窓からの脱出を試みるが、棚の上の採光窓はビクともしない。掛けていた手を離して、勝己は焦ったような舌打ちした。


「開かねえクソ。外から固定されてやがる」


 下から勝己の様子を見上げていた◎は、いよいよ脱出口がないのだと悟り、期待で張っていた肩をすんと落とした。しかし落ち込んでいる様子はない。


「前に野鳥でも入って、塞いだのかしらね」


 呑気な口ぶりの場違いさに、立てかけている梯子を下っていた勝己は動きを止める。棚の陰から怪訝な顔を出して彼女の顔を見た。


「あんたは焦るとか、どうにかしようとか思わねえのかよ」


 そこからトン、と飛び降りる。◎は顎に手を当てて首を傾げて目を外方に向けたが、そんなポーズをとって考えても焦りは加わらなかった。


「うーん、そうね……オールマイト神父は私がここにいること知ってるから。大丈夫よ。夜までには探しに来てくれるわ」


 話しながらぱっと手を下ろし、◎は倉庫の中を見回した。他に抜け道を探そうとしているのか。それともこんな状況にもかかわらず、任務遂行のために品物になりそうな何かを探す気なのか。

 この倉庫に抜け道なんてない。悪ガキと呼ばれる幼い時分に勝己は学校中をくまなく探索した。生徒が入ってはいけない場所まで行き尽くしている。好奇心旺盛な子供の視点で見つからなかったものを、無欲な修道女が見つけられるとは思えない。
 勝己が何も言わないでいると、◎は勝己を見て、本当に何も心配していないといった穏やかさでこう言った。


「それに勝己が一緒だし」


 それが問題なんだよ。
 勝己は内心そうひとりごちた。










 勝己には秘密があった。誰にも言えたことがないし、言うつもりもない。その秘密を抱えて教会の懺悔室に入るが、神の前でも告白をしたことはなかった。ただ、胸の内に抱えているものに意識を向けて黙り込むだけ。その秘密を、罪を、自分以外の誰かに赦してほしかったり、捨てたい訳ではないのだ。

 全ては言い訳かもしれない。毎日懺悔室に行くのは、心と向き合うためだけではない。勝己には神にすら明かせない邪な思惑がある。


 勝己は恋をしている。まさに今この場で、自分と一緒に閉じ込められている修道女に。


 二人きりの密室だからといって、何かをするつもりは毛頭ない。それでも、◎への過剰な意識は収まる気がしなかった。





 陽が残る内に納谷の隅々までひっくり返した後、カラスの鳴き声に気づいた。◎が黙っているのに合わせて勝己も沈黙を守っていたが、視界に意識を向けるとかなり暗くなっている。暗がりの中でわずかに浮かび上がるシルエットは闇に溶けかけていた。棚に寄りかかっていた体を浮かせて見回すが、一目で◎の居所を見つけられなかった。


「おい、どこにいる」

「ん」


 久方ぶりに声を発すると、◎は短く緩やかな声を出した。んん、と小さく息を漏らして、衣擦れの後に伸びをしたような声が聞こえた。その音の方を見ると動いてるのがなんとなく見えて、おおよそどこにいるか掴めた。


「呼んだ?」

「……寝てたんかよ。ホント呑気だな」


 寝ぼけ声に呆れて吐き捨てた後、少ししてから、暗い、と呟いたのが聞こえた。


「勝己、どこ」

「棚んとこ」


 暗闇の中で発せられた◎の声はどことなく不安げだった。怖いのかと思案して、勝己はできるだけはっきりと声を張った。


「見えない。そっちに行っていい?」

「ああ」

「どこ?」

「なんか喋ってろ。俺が行く」

「うん。ここ、見える? こっちよ」


 声を頼りに手を伸ばし、◎を探す。移動してみると一歩進むのも難儀で、改めて闇の深さを知る。耳を澄ませる中、◎の声とともに彼女も動く気配がした。移動のためではなく、立ち上がって彼女も手探りで勝己を探しているらしい。
 ようやく行き着いた先で、指先に生き物の感触がした。◎だ。場所に見当がついていたとはいえ、見えない状態で何かに触れると指がびくりと跳ねる。同時に彼女からも「あっ」と小さな声が漏れて素早く逃げられた。暗がりの中で突然触れられた驚きというよりは、女だけが出す恥じらいの声だった。
 その声と、手に触れたやけに柔らかい感触で、本来ならば親密な男女でないと触れてはいけない場所を想像する。背徳感と、思春期が持つ異性への関心が混ざり合い、勝己の全身の体温は一気に上がった。


「……どっか触ったか」

「うん……でも仕方ないわ。事故だもの」


 事故。その言葉から察するに、どうやら想像通りの場所を触ってしまったらしい。
 暗闇であることをいいことに今し方の感触を思い出して、胸に触れたであろう指先を軽く握る。そして親指の付け根の内側を握った指の腹で撫でて、柔らかさを思い出す。とはいえ服の上から表面に触れただけだ。女の体の柔らかさを堪能したわけではない。それでも異性に触れることは勝己にとって稀なこと。ましてや、◎は意中の相手だ。たとえ触れたのが手や肩や背中であっても、勝己はその感触を反芻したに違いなかった。


 (こいつ結構胸あんな)


 相手が教職者だとわかっていようが、そう思うのは年頃の少年ならば当然のことだった。



 土の地面が抜けると疑ったわけでもなかったが、腰を下ろす手前に身を屈んで地面との距離感を確かめる。すぐ側で◎もそっと腰を下ろしたらしく、お互いが同じ高さで音を立てながらその場に座った。
 ◎が隣に腰を下ろすと、その瞬間ふわりと清潔な匂いが勝己の鼻腔を掠めた。太陽をめいいっぱい浴びた洗濯物の匂い、とだけでは明言しきれず、どこか柔らかさや甘さに似た香りを感じる。あの家でオールマイトと同じように洗濯しているのに、どうして違う匂いに感じるのかわからなかった。

 手を伸ばせば触れられる距離にようやく気持ちが落ち着いたらしい◎は、いつもと同じ調子を取り戻して口を開く。そのことに勝己も密かに安堵した。


「今日は懺悔室に行けないわね」

「別に場所にこだわんねえよ」

「そう? 毎日来てるから、あそこが落ち着くのかと思った」

「誰も来ねえ場所があそこくれえなだけだ」


 勝己は口が悪い。憎まれ口ばかり叩くし、そもそも周りを威圧しがちな彼には会話を続けようという意思が薄い。それが当たり前になっているせいで、教職者に対しても尊大に見える態度でいてしまう。しかし◎は、勝己に対して「態度は悪いが存外親切な少年」という評価を持っていた。分別も倫理観もあるし、催し事の準備にも献身的で、何事にも手を抜かない。悪人でないことは間違いないと信頼を寄せることができた。人を遠ざけているようで内に情を持っているところは死に分かれた父に似ている。他人と一線を置く生き方をしている◎にとって、勝己は拠り所にできる稀有な存在だった。唯一、◎の友人と言える人でもある。


「ねえ。勝己の手に触ってていい?」

「ん」


 ◎が問うと、勝己は肯定の意として手を出した。◎の目には見えない。暗闇の中で伸ばした手を、今度は確実に胸には触れないように、◎の方へ伸ばすと彼女の膝に触れた。触覚が敏感になる世界で、◎は触れらて可笑しそうに笑った。手遊びで喜ぶ子供のような、沸点の低い無邪気な笑いだった。◎はよく微笑む女だ。笑い声に彼女の表情を想像しながら、勝己は自分の手に小さな柔らかい手が重なったのをその温かさで感じる。繋がった手から、この胸の早鐘が伝わりはしないだろうかと少しだけ心配する。杞憂だとわかっていたけれど、指先が震える程度の些細なことが、彼女への熱が知らせる一因になる気がした。耳が熱くなる。しかし今は暗闇だから見えはしないと、理性の紐が緩んで油断を弛ませかけていた。瞼を強ばらせながら震えを誤摩化すべく彼女の手を握ると、◎も握り返した。


「前に、勝己のことお父さんと似てるって言ったでしょ」

「ああ」

「私、お父さんが好きだったの。よくこうして、心細い時に傍にいてくれてた」


 胸の内で風が騒ぐ。心細く思っている彼女にあからさまな隙を見た。意図的に勝己の心を誘導しようとしているのかと、疑心が生まれるほどに。だけどそれ以上に、誘導ならばそれでもいいから、彼女の隙に触れたい衝動が止まらなかった。平衡感覚を失うほどの地震が、体ごと心を揺らす。勝己は平素の自分を取り繕うとした。


「身代わりってか」


 思いの外言葉に棘が含まれる。◎が自分に父親を重ねているのは知っている。出会って間もない頃にそんな話をされた。顔ではなく、言動が似ているらしいとも。
 その話は、彼女から信頼されているのだと実感できる。だがそれ以上に、彼女の父親以上の存在になれない日陰の気分も味わわされる。それは勝己の理想ではなかった。父親の印象を取り外した上で、彼女から信頼を向けられる男になりたい。印象を変えるなんて、そうそう簡単ではないとわかっているけれど。ただ純粋に自分を見てほしかった。


「俺はお前の親父じゃねえ」


 拒絶の言葉に、◎は勝己の方を見て少し焦った。自分が勝己に向けているものが、正しくないと突き放されている気がした。勝己に向くイメージを彼自身が受け入れがたく思うのならば、それは彼にとってよくないことなのだ。そう思い、視線を伏せていくらか声が沈む。


「……ごめん。嫌よね、同い年なのに父親に似てるなんて」

「そうじゃねえ」


 今度は勝己が焦った。どのように思われても、◎にとって自分は他より信頼を向けられる人間なのだという自覚が勝己にはあった。理想通りの気持ちを向けられないからといって、彼女の気持ちが開いていること自体を否定はしたくない。だが、なんと言えば自分の感情を伏せた上で思ったことを伝えられるのか。言葉の断片をいくら蓄積していても、声にする言葉を選べようもなかった。そもそも、他人から向けられる感情を、自分の理想通りに向けられたいと思うことそのものが傲慢なのだ。


「俺相手だからってんなら、文句はねえ」


 お前にとって俺はダチなんだろ。
 静かに発した言葉の外で、そう考える。だがそれを声にはしなかった。友人として◎を受け入れてると、わずかも思われなくなかったからだ。そんな誤解は御免だ。誤解された方が都合がいいとわかっているのに。

 ◎は勝己を拠り所にしていること自体を否定されていないのだとわかると、ほ、と短く息を吐いた。そして、彼の言い分に我の強さと子供じみた承認欲求を感じて、幼い子供と話すときのような優しい語調で自分の考えを口に出す。


「もちろん、勝己のことが好きだからこうして色んなこと話してるのよ」

「それじゃダメなんだよ」


 ◎は当惑する。何を言えば勝己が受け入れられる言葉になるのだろうか。
 父親に似ていると思うのは、不器用な優しさが重なるからだ。自分の親ほど歳が離れている人に似ているなんて言われたら、老けていると聞こえるのが普通だろうし、だから勝己はいつも噛みつくのだろう。年齢は関係ないといくら言ったところで、言われた方は不服に思うかもしれない。だが、父に似ているということは、◎にとっては最上の好意を示す言葉だ。勝己がそれを知らないにせよ、自分たちは友達として互いに親愛を抱いているはずだ。
 打ち解けているのに、それじゃダメとはどういうことなのだろうか。何と言えばいいのだろうか。勝己も自分を友達だと思ってくれているはずなのに。


「どういう……」


 何故そうしたのか、勝己は明確な答えを持たなかった。暗がりの中では罪の意識すら闇に霞んだ。


 繋いだ手を引いて、もう一方の手で◎の顔を探り当てると唇を合わせた。柔らかい感触に何事かと咄嗟に身を引いた◎は、二度目に触れた時にそれが勝己の唇だと気付いた。あたたかい吐息に訳が分からなくなる。どうしてこんなことをされているのだろう。

 勝己の肩を押す。強い力ではなかったが勝己は離れた。それでもまだ、互いの顔の体温が感じ取れる距離だった。暗がりの中で彼の顔は見えない。しかし間近で見つめられている気がして、それはきっと間違いないことだった。

 ◎の戸惑いは空気を揺らしていた。表情も声もなくても伝わってくる。何であれ、彼女の意識が自分に向いていることが嬉しかった。じわりと熱に痺れる。他の全てを消して、自分だけを見てはくれないか。せめてこの場にいる間だけは。


「……ここにいる間だけ神のことは忘れろ。俺だけを見ろ」


 幸福な夢を見続けたいために、目覚めを拒む時に似ていた。だから何を言っても罪にならないと思えた。それでも口から出た言葉に、なんて悪意ある言葉だろうかと思う。罪悪感が体の中心を熱くする。ただ願っているだけなのに。こんなにも傍にあるものを欲しているだけなのに。どうしようもないほどに。


「どうせ何も見えねぇ。誰も」


 いっそ本当に夢ならばいい。こんな恋を抱いたことすら現実でなければいい。
 ◎が望む通りに、ただの友人でいられたなら。


「かつ」


 その先は唇に閉ざされた。この行為が何だかわからないほど◎は世間知らずではない。神に仕える者が触れてはいけない領域だ。禁忌とも言える。それがわかっているのに、全力で足掻いて逃げることが出来なかった。勝己の唇に、抗いがたい柔らかい引力を感じた。
 はじめのキスは長く、呼吸が重なる距離を保ったまま一度離れる。緊張で震えた吐息が唇を撫でて、鼓膜を揺らす息遣いが緊張を伝播させる。また唇が触れた時、勝己は口を開いて舌を伸ばした。唇の合わせを舐め、その中に入ろうとなぞられる。その感触から逃れようとして◎が唇を開くと中に舌が差し込まれた。瞬間、鳥肌が立つように小さな電気が肌を走り、熱くなる体が腰を反らした。
 舌をすくい取られると、応えるのが自然であるかのように◎も舌を動かす。絡まる舌に鼓動が早くなり、二人は平素の自分が己の手から離れていくのを感じた。


「は、ぅっ……」


 体が強張る。体の奥から熱が広がる。こんな唇一つで教職を剥ぎ取られて、ただの人に引き摺り下ろされる。シスターでなくされる。その壮絶な背徳感は恥だった。シスターの立場を弁えない恥。そして一人の人間として、性に直面した時の。


「やめて……ダメ、こんな」


 言葉では拒否するが、身じろぎ以上の抵抗はしなかった。
 怖かった。悪いことをしている罪悪感があったし、獣になった異性を初めて目の当たりにした。しかしそれと同時に、逃げ出してしまいたいのに勝己を手放すのが惜しかった。我慢すれば耐えられると体を固くする。立場上そんな素振りを見せるわけにはいかなかったが、触れ合うことへの好奇心がないと断言できなかった。

 勝己の中で暗い炎が揺れる。恋を孕んだ思春期の劣情だった。彼女の何もかもに触れたくなるのに、その欲に従えば幾度の生涯をかけても償えない罪になる。こうして唇を合わせることすら本来なら許されないことだ。悪魔と魂の契約を交わす方がまだ罪が軽い。この罪の意識は、恋が心を燃やすたびに焦げ付いて灰を降らせる。灰は鎖のように重かった。


「◎」


 どんな表情で自分と対峙しているのか。この暗闇が惜しい。彼女も下卑た男が好むような情欲を纏うのだろうか。体の芯を熱くして男を欲するのだろうか。平素の彼女を思い出しながら、この闇の一寸先で、どうかいつものたおやかな表情が崩ていてはくれないかと想像する。

 熱烈に求められているのがわかる。顔が熱くなったのは、本能がそれを悦ぶから。呼ばれることが、求められることが快感だった。だけど。


「やめて、勝己……」


 受け入れてはいけない。
 だけど弱々しい拒絶は無視された。勝己は何度もキスをした。死の淵を彷徨う砂漠の旅人が、辿り着いた水を喉に流して潤すように。焦燥感のある飢えを柔らかな唇で満たす。


 奪われるようなキスが幾度となく繰り返された後、勝己はようやく◎が刹那的な存在でないことを知った。まだ彼女はここにいる。まだここを出るまで時間はある。

 ぎゅうと抱きしめた。少女の体は細く、柔らかかった。


「……◎」


 どうしてこの人は、凍えるほど寂しい声で私の名を呼ぶのだろう。
 どうして名前を呼ばれるだけで胸の奥が痺れるのだろう。なぜ今、瞳に熱く涙が溜まるのだ。

 勝己は動かなかった。この腕を離せば、◎が風に吹かれて消えると心から信じているようだった。そう言われたわけでもないのに、◎はその神妙さを感じ取って戸惑い硬直していた。いつまでこうしてればいいのだろう。じっと動かない勝己にどうするべきか考えて、彼の体に腕を回すことを想像したけれど◎は動かなかった。


「…………」


 燃えるように顔が熱いのは、この倉庫の篭った空気のせいなのか、この状況に自分の体が異変を起こしてるからなのか、◎にはわからなかった。

 ただ、極上の夢を見ている時に似た浮遊感の中で、勝己の体温に何故だかとても安心していた。眠りにつくように目蓋を閉じると、涙が一つ流れた。