君に言えないこと






(♀夢/英雄学/爆豪勝己/ベストジーニスト/notヒーロー志望/成人後/診断メーカーより)










notヒーロー志望のお話は
「もうずっと前から消えてしまいたかった」で始まり
「繋いだ手は今度こそ振り払われずに、きゅっと握り返された」で終わります。










―――――――――



 もうずっと前から消えてしまいたかった。
 思春期の頃に植え付けられた固定観念は根強く残る。恋愛感情に対する嫌悪感は今も消えなかった。
 
 にも拘らず、◎はふとした瞬間に勝己に強く引き寄せられることがある。重力よりも強い力で、抗いようもなく勝己に恋に落ちる。同じ相手に何度も何度も。
 
 それは勝己に知られてはいけないものだった。
 
      *
 
 玄関の鍵が開く音に◎は顔を上げた。時計を見るとまだ夕刻。想定していたよりも少し早い時間だった。コンロの火を止め、玄関に繋がる廊下に顔を出す。勝己が帰ってきて靴を脱いでいるところだった。
 
「おかえり。今日早いのね」
 
「ああ。昨日帰れてねえからな」
 
 言いながら、勝己は眠そうに欠伸をした。今日は早いが、昨日は丸一日帰らず、一昨日はちょうど今くらいの時刻に家を出て行った。ヒーローのタイムスケジュールは不定期で、一週間に三日も会わない、ということもままあった。
 勝己はキッチンに入ると照明の眩しさに固く瞼を閉じ、そのあと無理矢理に目を抉じ開けてコンロの上のフライパンを見た。一見かなり機嫌が悪く見えるが、相当眠いという顔だった。ベッドに直行したら二秒で寝そうだ。
 
「作り始めたばっかりだからまだできないの。先に寝たら?」
 
「おお」
 
 勝己の足取りは平素よりゆったりとしている。のろのろとダイニングを通り、隣室に繋がる引き戸を開けると中に入る。その動きが泥酔している時に酷似していて、◎は勝己の後を追って寝室に入っていった。
 鞄を床に落としたまま、ベッドに腰掛けてぼーっとしている。次に起こす行動のためのエネルギーを溜め込んでいるようだった。◎は床に放置された勝己の鞄を定位置に移動させた。
 
「あとで起こす?」
 
 こくりと、頭の重みで頷く。そのまま頭が上がらないまま俯いた。これは寝る、と◎が思うのと同時に勝己も自覚したようで、シャワー諸々を諦めて布団を捲って中に潜り込んだ。
 
「何時頃に起こせばいい?」
 
「飯できたら起こせ」
 
「じゃあ後で声かけるね」
 
「ん」
 
 応答が終わると、◎はそっと引き戸を閉めた。
 
 
 
      *
 
 
 
 このアパートは元々勝己が一人暮らしをするために借りた部屋だった。二人は雄英を卒業すると共に、それぞれ別の場所で一人暮らしを始めた。勝己はヒーロー事務所にサイドキックとして所属し、◎は女子大学に進学した。
 ◎が借りた部屋は通学に便利な立地のアパートで、勝己の住まいにも気軽に行ける距離だ。しかしこれまで隣家に住んでいたことと比較すると生活拠点は当然遠ざかった。
 
 ◎がそこに住み始めて一年と少しした頃のことだ。キャンパスライフにもアルバイトに慣れ、誘われたコンパに参加するなどしてそれなりに充実した日々を送っている中での出来事。夜道で時折うしろを振り向いて誰もいないことを確認しながら歩いている時、その中に人影を見かけるようになった。道すがらのコンビニやスーパーに立ち寄ったり、人が多い住宅街を回り道したりして、人影が見えなくなってから家に帰る。そんなことが連日続いた。
 講義が休講になっていつもより早く帰宅した◎は、自宅アパートの集合ポスト前で男が立っているのを見かけた。チラシを入れている様子はなく、蓋を開けて中を覗き込んでいるようだった。アパートに入るためにはそこを通らなければならず、◎は遠くからその様子を伺っていた。別の住人がやってきた時に何食わぬ顔で去っていった男を確認した後にアパートに近付いたが、連日のこともあったのでポストには触れずに部屋に向かった。
 ◎はそのまま部屋に入ってはいけない予感がして、二つ隣の部屋の前で立ち止まって鍵を開ける振りをした。その時アパートに接する道を振り返ると、物陰からこちらを見ている男がいた。ポストの前にいた男だった。背筋が寒くなり、◎はその場を逃げるように離れてスマホから勝己にメッセージを送った。
 
『知らない人がアパートのポスト漁ってた』
『私の部屋かもしれない』
『まだアパートの近くにいて、部屋に入るところ見られそうだった』
『どうしよう』
 
 そう送ると勝己の方から電話がかかってきた。非番ではなく、パトロール中だったようだ。サイドキックとして所属しているベストジーニスト事務所のヒーローと一緒におり、「行けねえから事務所まで来てろ。名前言やぁわかるようにしてやる」と言われ、その足で電車に乗り込んで事務所に赴いた。
 事務所の前まで来るともうその男の姿はなかったが、言われた通りに事務所に入り、受付で名前を告げて応接室で待つ。到着したことを勝己に連絡して、事務員らしい女性から出されたお茶を飲む頃にはだいぶ落ち着いた。
 
 勝己がベストジーニストと共に戻り応接室に入ると、◎は立ち上がって頭を下げた。
 
「こんにちは。お仕事中に私情でお邪魔してしまいすみません」
 
 かしこまってそう挨拶をした◎にジーニストは意外そうな顔をし、勝己は怪訝な顔をした。外面のいい◎ならこういう時、社交的に笑うからだ。それがない。
 
「いや、気にすることはない。市民が安心して生活できるようにするのもヒーローの仕事だからね」
 
 初対面だが、◎が緊張していることはジーニストも察したようだ。不安を取り除くように、穏やかな口調で優しく続ける。
 
「君たちはあまり似ていないんだな。顔もだが、礼儀も」
 
「え、顔……?」
 
「? 身内と聞いていたが」
 
「ああ、幼馴染なんです。家の行き来が多かったので身内のようなものではあるんですが」

 ジーニストは物言いたげな視線を勝己にやった。
 
「君は情報を正確に伝えようとしたまえ」
 
「こいつが俺の何でもアンタに関係ねぇだろが」
 
 勝己は刺々しい態度でそう返す。そうしながら、どうするかを考えた。
 ◎と顔を合わせるまで強い危機感はなかった。彼女が異性から好意を持たれることはこれまでも幾度かあったからだ。自分の部屋の鍵を渡して、退避してる間に落ち着いたらその後帰ればいい。そう伝えるつもりだった。具体的に直接被害が出ていないのでは、◎自身を狙っているのかもまだ不確定だ。しかし◎の様子を見ていると思い込みだと一蹴するのは憚られて、明るい時間でも再び一人で歩かせるのは気が引けた。
 
「お前今日はもう学校終わってるんか」
 
「うん。今日はバイトも休み」
 
「明日は」
 
「二限から。バイトは夕方から」
 
「教材」
 
「家にある……」
 
「どーせケーサツにゃ言ってねえだろ」
 
「うん……封書開けられてたとか実害はないし、思い込みかもしれないし」
 
 勝己の問いは言葉足らずにも拘らず応答はスムーズだった。それで二人の並ならぬ交友関係を察知したジーニストは、◎が勝己に連絡してきたことに納得した。彼は◎にとって望ましいと思われる結論を瞬時に考え、勝己を向いた。
 
「君はもう上がりたまえ」
 
「あ?」
 
「不安を煽られて君を頼っているんだ。君が行くのがベストだろう」
 
 勝己は少し面白くなさそうな顔でジーニストを見た。自分がしようとしていたことを先に言われて不服に思っているようだった。しかし反論は口にせず、黙って応接室を出て行った。
 勝己がいなくなった後、◎は改めてジーニストに軽く頭を下げる。
 
「すみません、お気遣いいただいて」
 
「他のヒーローでもそう判断するさ。……それにしても」
 
 そこで言葉を切ったジーニストに、◎は視線を上げた。感心したような目を向けてくる彼が、何を考えているのか直感でわかった。
 
「恋人ではないです」
 
「おっと、顔に出ていたかな」
 
「少し。あと、そう思われることがよくあるので」
 
「そうか。違うのなら残念だ。彼は君からなら強く影響を受けそうだと思ったんだがね」
 
 どんな影響ですか、と思ったものの、訊く気は起きなかった。彼が期待する通りの影響を勝己に与えたら、恋人に発展するかもしれないと考えるのが嫌だったからだ。
 
 私服に着替えて応接室に戻ってきた勝己と共に事務所を出る。サイドキックたちに見送られながらドアを閉めた後に、中がざわめくのが聞こえた。どんなことが話されているのかは察しがつく。勝己にはほとんど女の影がないから、表立って◎が傍にいる時は大抵、先ほどジーニストが考えていたような話になる。
 
 それを鬱陶しいと思いながら、本当にそうなったらいいなと考え始めるようになったのはいつからだろうか。
 
「次に出勤した時、変な話されたらごめんね」
 
「ンなもんお前に関係ねえだろ」
 
 お前が気にすんな、と言葉の外で告げていた。
 勝己は帰り際に部屋の合鍵を作り、◎を家まで送ってくれた。そして教材一式と貴重品と数泊できる荷物をまとめるように指示すると、戸締まりを確認してそのまま自分の部屋に招いてくれた。
 
「お前いた方が防犯になんだろ。俺の部屋も大半空けてっからな」
 
 それが彼の言い分だ。勝己には、男の姿をちらつかせれば不埒者も身を引くだろうという思惑があった。
 そこから半同棲のような生活が始まり、◎は時折自分の部屋に戻りながら荷物を移して勝己の部屋に落ち着いていった。
 
 その数週間後、勝己は帰宅中に◎とその後ろをついて歩く男を発見した。男はアパートまでついてきて、◎が部屋に入るところをしっかり見届けてからアパートに近づいて行く。何をするつもりかは知らないが、尚も◎のプライベートを覗き見することだけはわかった。男が五歩も進まぬうちに勝己が物陰に引き摺り込んで掴みかかったところ、男はコンパで◎と飲んだことがあると白状した。勝己が凄むと泣きながら謝って来たので、勝己は顔写真付きの学生証を出させてスマホで写真を撮り、学校に通報されたくなきゃ二度とつきまとうなと吐き捨てて解放した。制裁を食らわせてやりたかったが、後ろをついて歩いただけで迷惑行為と言うのは大げさだったので警告に留めた。しかし、次はねえぞ、と釘は刺した。
 
 家に帰ると、◎は勝己の姿を見て安堵した顔を見せた。男のことには気付いていたが、帰宅先が勝己の部屋なのでそのまま入ったらしい。時折部屋に戻って変わりないことは確認しているが、まだ付き纏われている気配を感じると少し不安そうだった。
 
 その男の正体が判明して警告したことを伝えれば、◎が安心することはわかっていた。しかし勝己はそれを言わなかった。不審者から身を守るという口実がなくなっては、◎がこの部屋を出ていくと思ったからだ。
 
「俺がいねえ時に戸締まり忘れんなよお前」
 
「うん」
 
 自分の手の届く範囲に置いておきたくて、されど自分の心境がかつてと変わり過ぎたせいで、思っていることを素直に伝えることはできなかった。
 
 共同生活はほぼ一年ぶりだ。その空白の時間は短いようで長い。ヒーロー活動をしていると生活は不規則になり、互いの生活リズムが異なるせいで、住まいが同じでも行き違うことは多かった。また、勝己は同年代の中では早く誕生日を迎えるため、◎に鍵を渡した頃には既に飲酒できる年齢になっていた。それは実家で暮らしていた時と比べて大きく異なる点だった。
 
 ある時、外で飲んできた勝己は帰巣本能で家まで辿り着いたが、玄関で酔い潰れた。靴も脱がない有様は勝己にしては珍しいことだ。出迎えた◎は玄関の鍵を締めてから靴を脱がせてやり、さすがに運べないので水を持ってきてから立てるかどうか話しかけていた。
 
「勝己、起きて。立てる?」
 
「寝てねえ」
 
「寝るならベッドで。風邪引いちゃう」
 
 立ち上がって腕を引く。勝己は愚図るような声を漏らし、のろのろ立ち上がって壁に寄りかかった。しかしそのまま動かなくなり、◎は珍しく困窮して「勝己ぃ」と手を引きながら再び呼びかけた。勝己は俯きながら数度瞬きをした後、◎に触れられている手が温かくて気持ちよくて、ほぼ無意識にその手を自分の方へ引き寄せた。脱力した人形のように思っていた勝己に突然腕を引かれ、◎は無抵抗に勝己の胸に飛び込む形になる。酒のせいだろうか。勝己の高い体温と少し早い鼓動が伝染するように、胸の中が急にぐわっと熱くなった。離れようと思っても繋がった手は強く握られている。勝己の頭が動いて、◎の髪に頬を当てる。髪越しに勝己の温度がわかった。耳のすぐ近くで鼻から息を吸う音が聞こえて、◎は心臓が爆発する思いになりながら硬直した。
 
「か、かつき、ちょっと」
 
 しどろもどろになって呼びかけると、勝己はのっそり頭を上げた。◎を見ながら壁に頭を預け、真っ赤になった◎の顔を熱っぽい目でしばらく見ていた。
 触れている勝己の指先がぴくりと動く。その数秒もしない後、勝己は急に目が覚めたように目を見開かせて、繋いだ手を弾くように振り払った。勝己はその表情のまま息を止め、◎はそんな勝己に呆然とした。そして、勝己相手に赤面している自分の姿を見て、胸の内に秘めた気持ちが知られてしまったのではないかと、◎は熱さと寒さが混ざった緊張で、背筋が痺れるのを感じた。
 
「……なんか言ったか」
 
「え?」
 
 聞き返すが、勝己は何も答えなかった。◎は勝己の質問の意図が正確にわからないまま続けた。
 
「寝るならベッドで、って言ったけど」
 
「あー……おお。……の、前に水……」
 
「あ、そこに。大丈夫? 気持ち悪くない?」
 
「ん」
 
 玄関の床に置いたままのグラスを取って勝己に渡すと、勝己はぐいと飲んだ。グラスを◎に押し返してそのままダイニングに行き、寝室に入らずソファに倒れた。
 
「勝己、ベッドで」
 
「いい。お前寝ろ」
 
「え、え? ちょっと……」
 
 それ以上の呼びかけには答えなかった。仕方なく◎は勝己の部屋に持ち込んでいたブランケットをかけてやり、自分はベッドで寝た。
 ベッドの中で、勝己に振り払われた手を見る。
 
 勝己と付き合っているのかと一番最初に言われたのは小学四年生の頃だ。その時に「付き合ってない」と伝えたのに周囲が聞き入れてくれなくて、勝己とそういう関係に見られるのが面倒になった。同時に恋愛自体にも嫌悪感が湧いて、自分たちは兄妹のようだと思うことが一番楽だと感じた。それは勝己も同じだった。
 密かに心変わりしてしまったのは、いつだったろう。いま思い返せば、兄妹のようだと思っていたのは単なる意地だったかもしれない。
 勝己のことが異性として好きだと知られてしまったら、自分たちの関係が壊れる気がした。勝己がこの手を振り払ったのはそういうことのように思えた。
 
 目が覚めたら勝己が今晩のことを忘れてくれますように。
 
 そう考えながら、その日の◎は眠った。
 
 
 
      *
 
 
 
 食事の用意はできたが、勝己を起こすことは忍びない。一日以上拘束されているのだから仮眠は取っているだろうが、疲れているだろうし、眠れる時には眠ってほしい。しかし勝己には声を掛けると言ってしまった。
 寝室のドアをそっと開けると、暗がりの中で寝息が聞こえる。
 
「勝己ー……?」
 
 足音を立てないように忍び寄って寝顔を覗き込む。穏やかに眠っている。時計を見ると七時。実家にいた頃ならもう夕飯を摂っている時間だが、今の勝己は生活が不規則だ。もう少し時間が経ってから起こそうと、◎は鞄の中から読みかけの本を漁ってダイニングに移動した。
 
 ぼすんとソファに沈む。どちらかがベッドを占領している時にもう一人の寝床になる場所だ。お互いに親しい間柄だが◎は居候の身。勝己と違って体力の消耗が激しい仕事をしているわけでもない。それを理由に部屋に転がり込んだ頃にソファで寝ると申し出たのだが、勝己は不在の時はベッドを使っていいと言ってくれた。「ベッド空いてんのにソファ使ってたら馬鹿だろ」とも付け加えて。実家にいた頃は来客用の布団を使わせてベッドを譲らないことが多かったので意外だった。
 
 勝己の部屋に転がり込んでからもう三ヶ月は経つ。最近は帰り道に背後を振り返っても人影を見かけなくなった。このアパートまでついてくるのを見たから場所は知られているはずだが、男と交際していると思って離れてくれたのだろうか。
 なら、そろそろ部屋を出て行かなければならない。しかしそれを自分から言いたくなかった。やはり勝己といる時間は居心地がいい。できるだけ長くこの部屋に留まっていたい。
 勝己が泥酔していた翌日、勝己は◎への態度を変えていない。だからまだ大丈夫だ。このまま気付かれなければ、まだ一緒にいることができる。
 
 現実から目を逸らすように、◎はそう考えていた。
 
 ソファで本を開いて、しばらく経った後。寝室に続く背後のドアが開く音がした。立て付けが良いためスッと静かに開いた。傍らに置いたスマホで時間を確認すると、眠る勝己に声を掛けてから一時間半ほど経過していた。
 
「おはよう。ご飯食べる?」
 
「ンだ、できてんのかよ。起こせっつったろ」
 
「一応声はかけたのよ。少し待ってたの」
 
 寝起きの掠れた声で勝己は言う。まだ少し眠そうだが、洗面所に向かったので起きるつもりなのだとわかった。本に栞を挟み、フライパンに入れたままの料理とみそ汁に再び火を通して温める。洗面所からは口をゆすぐ音と、洗顔しているらしい水音が聞こえた。
 
 ダイニングに料理を並べている間に勝己が戻ってきた。彼はテーブルの上を見て足りないものを確認し、茶碗を出して炊飯器から米を盛った。それ以外はもう並べ終わっているので、◎はソファの前の床に座ってテレビを点けた。点けたチャンネルでは視聴者から寄せられた内容を元にした法律バラエティ番組が放送されている。
 
 勝己が隣に腰掛けると、いただきます、と手を合わせて二人で食事に手を付け始める。テレビでは「猫アレルギーでマンション住まいの相談者が、隣家のベランダから侵入してきた猫によって通院する羽目になった」というものが終わり、「取引先の男がしつこく連絡してくるのを体よく濁していたら、仕事終わりに白スーツに花束を持って出待ちをしていたので逃げたら相手の男がストーカーになった」という話に移った。
 
「うわぁ……」
 
 コメントに窮するが、流し見もできなかった◎が軽蔑じみた声を出すと、勝己は不意に少し前に起こった出来事を思い出した。◎につきまとっていた男。あれも顔見知りだったな、と。
 
「そういや、お前」
 
「ん?」
 
「まだ変な野郎からつけられてんのか」
 
 ◎は咀嚼したものを飲み込むのに失敗した。咽せはしなかったけれど。
 正直に言うとこの部屋にいられなくなる。その思いから嘘をついて誤摩化そうかとも思ったが、勝己との間に要らぬ心労を持ちたくはなかった。
 
「……最近は見ないかな」
 
「そうかよ」
 
 勝己は皿の料理に箸を伸ばし口に運ぶ。それ以上何かを言う様子はなかった。
 つきまといがないかを訊いたのは、念のための確認だ。同じ部屋で暮らしていても常に一緒にいるわけではない。鬼の居ぬ間のなんとやらで、性懲りもなくまた姿を見せているかどうかは◎から聞かないとわからない。だからそれで勝己の中の話は終了していたのだが、◎の中ではそうならなかった。
 
「出てった方がいい?」
 
 今度は勝己が飲み込むのに失敗した。眉間を寄せて◎を見て、改めてごくんと口の中を飲み込む。
 
「はあ? なんでそう」
 
 なんだよ、と続けかけて止める。なんでも何も、そもそも◎はつきまとわれたから勝己を頼ったのだ。ことが済んだなら出て行くのが道理だ。そのことに気付いて急に黙り込み、言葉を探す。
 
「ンなこと言ってねえだろ。見なくなったからって、終わったとも限んねえんだしよ」
 
「そう言ってくれると嬉しいけど」
 
「出てく理由ねえだろ。たかだか五分程度の距離」
 
 引き止めなければ◎が出て行く方向に話が流れる。そう考えると焦った。今はお互いの生活リズムがズレているし、スケジュールも把握し切れていないし、連絡したところで会えるとは限らない。再び生活拠点が分かれたら、また変な男につきまとわれるかもしれない。惚れた女をみすみす他の男の手が伸びやすい場所に戻すのは阻止したかった。
 
「つーか、いっそ此処に住めばまるっと解決すんだろーがよ。てめーが思わせぶりだからモブがつけ上がんだよ」
 
 そう言うと、◎はきょとん、と勝己を見た。その発言について少し想像を巡らせたが、明確なイメージが湧かず首を傾げる。
 
「つけあがるって? 私、誰かに何かしてた?」
 
 あ、と思う。そういえば◎はあの男のことを知らない人と言っていた。コンパで会ったらしいが、◎は確実にその相手を忘れている。それを説明する気は欠片も起きなかったし、自分の失言をフォローする上手い言葉も咄嗟に浮かばなかった。類似した出来事は何かなかったかと小学生の頃まで記憶を遡ったが、そんな昔から◎を意識していたと思われるのも癪だ。自分が運びたい方向に話を運ぶほどボロが出てくる気がする。面倒になった勝己は苛立った様子で◎から目を逸らした。
 
「……ッそんなモンいちいち覚えてるわけねーだろ!」

 ヤケクソにそう吐き捨ててチャンネルを変えた。変えた先のチャンネルではクイズ番組、町工場のドキュメンタリー、お笑いバラエティが流れていき、クイズ番組に合わせてからリモコンを置くと勝己はそれ以上の発言を拒否するように茶碗の中身を口にかき込んだ。
 
 ◎はテレビを見ながらみそ汁を啜る。そうしながら、思わせぶりという言葉に引っかかったせいで聞き流した勝己の発言を思い出していた。ちらと勝己を見る。その視線に気付いているだろうが、勝己は視線を返さなかった。◎は少し言うか言うまいか迷って、改まってお願いごとをする時のような態度で小さく口を開いた。
 
「ねえ、勝己」
 
「ああ?」
 
「ホントに引っ越してきていい?」
 
 しばし沈黙が流れる。テレビでは回答者の答えが並び、問題の答えがVTRで流れている。勝己の口はもぐもぐと動いており、頑に◎の方を見なかった。出し惜しみするようなVTRの後に答えが明かされ、爽快なSEと共に正解者の席の装飾ランプが派手に光る。その映像が流れるのを視界に収めながら、勝己の咀嚼は緩慢な動きになる。何か考え事をしているようだった。やがて、ごくんと勝己の喉で食べたものが嚥下される。 

「部屋に入るだけの荷物にしろよ」
 
「……彼女できてから出てけって言わない?」
 
「招き入れてンなことするワケねェだろ」
 
「でも、そしたら私、勝己の部屋から出て行かないわよ」
 
「お前なァ……」
 
 探るような問答の後、勝己は呆れた態度で茶碗と箸を置き、且つ、信じられないと言いたげな目でやっと◎を見た。馬鹿を前にして返す言葉もないといった感じだった。
 
「てめェがなるんだよ。わかんだろうが話の流れで」
 
 口がきゅと結ばれる。頬が熱くなって、頭の天辺まで熱が上っていく。◎はみそ汁をテーブルに置き、両手を合わせるとその指先で口元を隠した。そしてぽそりと言った。
 
「勝己は言葉が足りないと思う」
 
 勝己は眉間を寄せ、めんどくせえと思ったのを一切隠さない溜息をどっと吐いた。◎に近い腕を彼女の肩に回し、もう一方の手はその細い両手首を掴んで顔からぐいと離した。そのまま鼻先が触れそうなほど顔を寄せる。吐息が顔にかかる距離に◎は息を飲み、心臓が跳ね上がって顔は燃えるほどに熱くなった。反射的に、ちょっと、と制止したくなったが、声を発するのも躊躇う距離だった。◎のその様子を見てから、勝己は非常に遅い動きで更に顔を近付けた。互いの唇の薄皮が掠めた場所で止まり、そのまま動かなくなる。不思議そうに勝己を見つめる◎の唇が震えて何か言いかけた時、勝己は唇を押し付けた。瞬間、◎から短い鳴き声のような声が漏れ、肩がビクと震える。肩を抱き寄せていた手はゆっくり背筋を下りていき、その感触から逃げようと背けかけた◎の頭をその手がまた押さえつける。触れるだけのキスに◎は緊張し、小さく膝を寄せた。
 
 テレビでは場違いのように賑やかな音声が流れてくるのに、どうでもよくなるほど勝己に触れている場所ばかりに意識がいった。
 
 頭を押さえつけられたまま、手首を拘束していた手が離れてテレビが消される。途端静かになる空間。心地よい微睡みを感じながら、持て余すほどの昂る熱が体を巡る。
 ただ触れるだけのそれをしている間、時間は本来の早さを忘れるほどに遅緩していた。やがてそっと離れると、勝己は◎のうなじに触れ、◎の瞼がぴくりと反応した。
 
「これでいいかよ」
 
 互いの前髪が触れるほどの距離で囁く勝己に、◎が「……はい」と答えると、かしこまった返答に勝己は小さく噴き出した。◎にかけていた手を離して勝己がソファに寄りかかると、◎は両手で頬を包む。温度変化の個性で熱を下げてしまえばすぐに平熱になるが、今の余韻を噛み締めたくて個性は使わなかった。
 
「はいってなんだお前。アガりすぎだろ」
 
「だ、だって……すごいドキドキして。勝己なんか、え、初めてじゃないの……?」
 
「中学ン時にお前とした時以来だわ」
 
「本当に? 大人のキスって感じしたのに……」
 
「何だそりゃ。ガキの感想かよ」

「ううー、なんかズルい」
 
 食事どころではなくなりソファに突っ伏して呻く◎に勝己は満足げに笑った。◎のリアクションに勝ち誇った気持ちもあったし、◎が勝己に対して幼馴染以上の感情を抱いていたこともわかったからだ。これからは恋人と銘打って隣に置くことができる。何より今後は◎に対して自分の気持ちを隠さなくていい。その開放感が一番勝己の機嫌を良くさせた。
 
 ふと、◎の手が勝己の手に触れた。◎はソファに頭をもたげたまま勝己を見ていた。
 
「勝己、私が勝己を好きだって感じたこと、これまでにあったの……?」
 
 静かに問う声を聞き、勝己は怪訝そうに眉を顰めた。そんなことがあったらその時に試している。もっとも「勝己が◎を幼馴染以上に想い始めてから」と付け加えられるが。
 
「ねーよ。さっきださっき」
 
「そう」
 
「なんだよ」
 
「ううん」
 
 なんだ、と◎は小さく笑った。
 勝己が酔って手を振り払われた日。あの時のことを思い出していた。勝己への気持ちが知られて、今の関係が壊れてしまうかもしれないと思った夜。
 その日のことを覚えているか問うてみた。泥酔して、◎に「何か言ったか」と訊ねてきたのはなんだったのかと。勝己は顔を顰めていたが、しばらくした後に「あ」と何か思い出した顔になった。言いたくなさそうに「忘れた」と主張する勝己に、そうではないだろうということは見て取れたけれど、◎は追及せず、小さく笑って「そう」と答えた。勝己の手に触れた手を、手のひらが合わさるように取る。
 繋いだ手は今度こそ振り払われずに、きゅっと握り返された。