忘却恋慕。






(♀夢/鬼刃/矢琶羽/主の性格が悪い)



 ◎は器量の良い娘だった。
 花を愛でる華奢で可憐な女だ。
 ◎の姿を目に留める度に、矢琶羽は胸に温かいものを感じた。

 時に温かさは度を忘れてひどく熱くなる。ほんの瞬きの間も見逃したくないほど見つめていたくなる。いつまでも鈴のような声を聴き続けたくなる。離れている時も瞼の裏に姿を見るようになる。果てにはその白く小さな手に触れられたら、細い肩をこの腕の中に収められればどれほど幸福なことだろうと、大げさなほどに想像して、その度に矢琶羽ははしたない己を恥じた。

 いつからそうだったのかは覚えていない。だからきっと初めから、◎には温かいものを持っていたのだ。それは恥に違いなかったが、この上なく幸福なものでもあった。

 五感が感じる全ての◎が愛おしかったが、矢琶羽が最も愛していたのは花を見る◎だった。花を見る◎の目は至極優しく、慈愛に満ちていた。それに類する何かを矢琶羽は知らない。それが至高に美しいものだと信じて疑わなかった。

 ◎は特に桜を愛していた。往来に桜の花が舞う時、◎の目はひたすらにそれを映す。その光景は黄泉国の幻影のようだった。

 枝を折り、満開の桜を贈った時、◎は顔を綻ばせて受け取ってくれた。その時、己が◎の瞳に映ったことが忘れられなかった。

 桜の季節の後は、土から生える花の中で一際美しいものを積んだ。花が傷まぬよう、できるだけ根に近いところから茎を折った。そうしている時、矢琶羽は幸福であった。また喜んでくれるだろうかと、幸福が胸を膨らませていた。花を見つめている◎を常に見ることは叶わずとも、花に優しい目を向けてくれるだけで良かった。その慈愛の目が一瞬でも長くこの世にあるだけで矢琶羽は幸福だった。



 花を贈った幾度目かのある時、矢琶羽の手を見た◎の目に、冷たい光を過った気がした。それはほんの一瞬で、思い違いだと思えるほど僅かな時間だった。

「ありがとうございます、矢琶羽」

 そう笑う◎は美しかった。
 しかし、一瞬見えた冷たい光のせいで、矢琶羽はその微笑みを正しく脳に刻むことができなかった。喉に刺さった魚の骨のような、違和感に近い不快。もしくは不安。


 矢琶羽は◎と別れた後、帰路へ進んだ足を思い直し、◎の方へ踵を返した。ただの思い違い、杞憂であることを確かめたかったのだ。





 ◎は家の門をくぐる前、手にあった花を路傍の草地に捨てた。





 息が止まった。
 目を疑った。
 花を捨てる◎が、◎ではない何者かに見えた。

 地面に張りついたような足は一歩も動けず、少し動かせば膝をついてしまいそうなほど力が入らなかった。矢琶羽にとっては長い時間の後、足を病んだ老人のような足取りで◎の家の門まで進んだ。

 先刻まで、己の手にあった花が投げ捨てられていた。驚くべきはそれだけでなく、その前にも捨てられたであろう色褪せ萎れた花も、矢琶羽が贈った花だとわかった。腰を下ろしてみれば、桜の枝すらその中にあるのが見えた。

 何故。そんなことを思う矢琶羽の耳に、遠いのにやけに聞き取れる会話が聞こえてきた。門の中からで、◎が兄弟の誰かと話しているらしかった。その中の一言が、まるで矢琶羽に矢印を向けて放たれたように、はっきり放たれた。


「泥のついた手で触れた花など愛せませぬ。汚らしい」



 その声の後の会話は、耳に穴が開いたように全てすり抜けていった。





 なんと性根の悪い女だと幻滅すればよかったのだろうか。されど己が勝手に贈り始めたもの。それを無下にされたからといって、◎を悪とするのは逆恨みも甚だしい。

 されど、ならば―――。

(ならば、はじめから要らぬと、そう言えばよかったろうに)

 それも逆恨みだろうか。

 ただ、優しい目で花を見る◎が愛しくて堪らず、どうか離れていても慈愛に満ちていてほしいと願っていたのに。ただそれだけの、柔く温い気持ちであったのに。胸の中を泥で汚された上、踏み躙られたようだった。泥濘んだ足跡は深い。

 全てただ悪戯に花の命を奪っただけなのだと、無意味さだけが矢琶羽を襲い、堪えきれずに散った花に涙を落とした。

「最近はお花をくださらないのね」

 後日、何食わぬ顔で◎は言った。矢琶羽は叫び出したくなるのを堪え、「摘まぬ方が長く咲けるだろう」と返した。◎は微笑み、きっとその方が花も喜びますわ、と答えた。



 こんな想いなど消えてしまえばよかったのに、矢琶羽は◎に好意以外の何かを抱いたことがない。◎に向くべきは恋情のみであった。全てを忘れて見知らぬ他人になることも叶わない。

 殺しきれぬ恋を抱く他、矢琶羽にできることは何一つなかった。








 鬼になって直ぐに湧いた食欲は◎を求めた。其れ以外の人肉などないと思えるほど強く。華奢でか弱く美しい娘。それ以上に美味な肉などこの世にない。そう信じて◎の元へ走った。

 喉を裂き絶命する直前に見た◎の目はひどく怯えたものだった。飢えた獣でも見るかのような弱者の目。その目はひどく甘美に矢琶羽の目に映り、これまで見たどの◎よりも愛らしく思えた。そう思えたのは、その目を見たのが刹那だったからか。彼女の最期に聴いた「化け物」と言いかけた叫びすら心地よかった。

 矢琶羽は◎の血肉を余すことなく食した。これほど美味いものが存在するのかとその食事に感動した。味というより、感情や欲が満ちる恍惚さに感動していた。

 食べ終えた時、矢琶羽に名残惜しさはなかった。求めていた女の血肉を喰らい、腹の中に◎が存在しているように思えたからだ。

「お主は儂じゃ。一つになったのだ。儂の血肉となったお主が、土に汚れんようにせんといかんのう。花もたくさん見てやろう。お主が儂の中にいても花を愛でられるようにな」

 愛でるような、この上ない優しい声で矢琶羽は言った。其れに返る声はない。矢琶羽は返事を求めてはいなかった。








































「おのれ! おのれおのれぇえ!! お前の首さえ持ち帰れば!あのお方に認めていただけたのに!! 許さぬ…! 許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ!! 汚い土に儂の顔を付けおって!!!!! お前も道連れじゃあああ!!!」

 首が撥ねられた後、鬼舞辻への忠誠と同時に矢琶羽が激高したのは己が土に汚れたことだった。
 もはや己が喰った人間のことなど覚えていない。人間を喰う理由は糧となる以外にない。それも全て生きて鬼として鬼舞辻に認められるために他ならない。
 矢琶羽は己が汚れたことに怒り、怨念の殺意を炭治郎に向けた。志半ばで悲願を達成できぬだけでなく、惨めに土に汚れて絶え逝くことの、なんと無念なことか。

「まだまだ足りぬ…! もっと…もっと苦しめぇ!!」

 許さぬ。許さぬ。許さぬ。許さぬ。
 せめて己もろともあの世に引きずり落とさなければ収まらぬ。地獄の淵で矢琶羽は炭治郎の裾を握りしめていた。まだここに命がある限り、この恨みを己の仇に突き立てねば死んでも死に切れぬ。ただひたすらに、己の汚れを恨むのみだった。

 よくも土に。土に。汚らしい。花すらも愛を失う土に儂を。
 許さぬ。許さぬ。許さぬ。許さぬ。

「まだだ…!まだ…!!足りぬ…!!!」





 恨みの言葉を紡ぎ続けた最期。
 己が消え去る刹那に、矢琶羽は散りゆく桜の景色と、美しい娘の姿を見た。