かつてはいつも隣にいた二人。面影だけの女。






 町の外れにある寂れた場所まで歩いた。昔は誰かが住んでいたらしい廃屋だ。街灯はなく人気もない。だが沈んだ夕陽の名残と町から届く明かりでお互いの姿を見るのに不便はなかった。

 廃屋の近場には大きな長い丸太が横たわっている。上辺が平らに削られていて、簡易的な長椅子として誰かが作ったもののようだった。その周りには直立した、断面の面積が広い丸太がいくつかあった。勝己は何度かこの場所に来たことがあった。
 買ったものの中から包まれたサンドイッチを取り出すと◎に押し付けた。流石に何かを与えられることを察することはできるらしい。そんな極些細なことをわざわざ意識的に認識しなければならないほど、自分が◎を至極無能な女だと思っていることを思い知る。記憶の中の◎も時折手が焼けた覚えはあるが、圧倒的に今よりはマシだった。昔の◎は意思があった。この女にはない。

 めんどくせぇ。再三単純にそう思った。

 直立している方の丸太に腰掛けると、勝己は長椅子を顎で指した。

「座れ。食え」

 逐一命令するのが面倒で短くそう言った。◎が座るのを待たず、勝己は袋の中から自分の分のケバブを取り出し齧り付いた。
 勝己の言う通りに長椅子の丸太に腰掛けると、勝己に倣い◎も渡されたサンドイッチを口に入れた。咀嚼する口が小さく動くのを勝己は横目で見ていた。その姿にまた記憶の中の◎を探す。◎だと思おうとするほど見知らぬ女に思えたし、赤の他人と思おうとするほど◎と面影が重なる。
 顔を向けず目だけで観察していたが、不意に伏せていた◎の瞼が開きその瞳が勝己の視線と重なった。かちりと視線が絡んだ瞬間、勝己は目を地面に伏せた。暗がりの中で視線に気付いていたのか、◎はそのまま勝己を見た。息を吸う音が聞こえ何かを発する気配があったが、思い止まったように一度口を閉ざした。再びまた口を開き、今度のそれには声が乗った。

「美味しい」

「そうかよ」

 声音は穏やかだった。奴隷と知らされなければただの女としか思えない。大抵の奴隷は卑屈で臆病だ。◎にはそのどちらもない。

「勝己、優しいのね」

 続くとは思わなかった台詞に咀嚼が止まる。いったいどんな顔をしてそんなことを言ったのかと再び視線を上げる。また、何を言われたのか一瞬考えた。自分に対して優しいと言ったのか。だとしたらその目は節穴だ。商人を脅迫して不正ルートで奴隷を買い、暴言を吐き、◎に対して理不尽な言動をしている自覚はある。それらは客観的に見れば、全て優しさの欠片もない。食事を与えていることに対するものだったとしても、出会いから今までをまともに正視して諸々を差し引けば、優しさなど微々たるものだ。そもそも、これは優しさではなく生かすための義務だ。そんなこともわからずに言ったのならば、なんて状況を汲まない言葉なのだろうか。

 混乱するようにそう思うと同時に、また郷愁が沸く。あのまま生き別れなかったら、その声音で自分をそう呼んで、そんなことを言ったりしたのか。未練がましさがそう過る。

 何度目ともなる逡巡めいた思考に嫌気がさす。沼に足を填められたようだ。このままずっと同じようなことをいつまでも考え続けていたら頭が腐敗すると思った。感傷的に受け止めようとする自分は無視するようにした。

「キメエこと言ってんじゃねえ。普通だろ。飯食わなきゃ餓死すんだろうが。死にてえんかよ」

「勝己が命じれば死ぬわ」

「てめぇ頭ポンコツかよ!いい加減にしろや!!」

 腰を上げ、そのままの勢いで側にあった別の丸太を足蹴にした。蹴られた丸太はそのまま傾き、ゴ、と鈍い音をして土と雑草の上に横倒しになった。
 勝己の激昂に◎は手を止めて勝己を見た。改めて注視すると、このわずかな時間に陽の光が更に海に沈んでいったのがわかる。◎の顔はほとんど見えない。だが、暗がりでも、その目が真っ直ぐ勝己を見ているのがわかった。怯えも恐怖もなく、ただ動いているものに反応する虫のような無機質さ。次に発せられた声に申し訳なさがあったのが唯一の人間らしい片鱗だった。

「ごめんなさい。私、いま怒らせるようなこと言ったのね」

「ああそうだよ!頭っから癪に触んだよてめぇのいちいちに!!ツラも喋り方もその目も、言ってることも全部!!」

「ごめんなさい」

「うっせぇ黙れ!!ムカつくっつってんだろが!!」

 ◎はこんなことで謝らない。◎は勝己に従順だったがもっと自我の強い女だった。◎は。◎は。◎は。

 こんな女は◎ではない。そう強く思うのに、これは◎だと別の自分が否定する。そのどっちつかずの鬩ぎ合いが一番勝己をイラつかせた。

 幼馴染の面影を追う勝己のその苛立ちはあまりに身勝手で、その理由は勝己が言わねば誰にもわかりようのないことだ。無論、◎も勝己が何故それほど毛を逆だたせているのかわからなかった。

 ◎は奴隷の荷車から降りた時と大して変わらない、出会ってからずっと一貫している落ち着いた態度で続けた。





「でも、本当よ。私は勝己のものだもの」





 やけに静かに、それは耳に届いた。

 ◎の言葉の逐一に思い出を重ねていた勝己は、その言葉に最も貫かれ、息を止めた。そしてほとりと思考が一つ落ちる。…それは。

 それは、もし◎だったら、なんて言った。

 ◎は、勝己の所有物だったけれど、自己犠牲心が欠片もない人間だった。誰かの為に自分が損をするなんて絶対にしない。自分の好奇心に従順で、自分と何かを天秤にかけたら真っ先に自分を選ぶ。奔放で、自分勝手で、だから、勝己とも馬があったのだ。

 自分が誰かのものだなんて、絶対に言わなかった。それが勝己でも。だからずっと隣にいれたのだ。◎は唯一、勝己の後ろにいない子供だった。それが…。

(、なんで)

 ◎なら絶対に言わなかった言葉だと思うのに、この女が◎じゃないと思えなかった。否。◎じゃない、と認めたかもしれない。

 勝己が向けていた、失った日常への羨望。その日常の中に存在していた◎。その◎は、もう死んだのだ。死んで、奴隷として、人間のクズとして、人生をリセットされて今息をしている。これはもう、勝己の知っている◎じゃない。

 …死んだのだ。

 意識をそれに向けたくなかった。
 いっそ別の人間かもしれないと、そう思い続けていられた方がよかったかもしれない。



―――ああ、お前もういねえのか。俺のこと全部忘れたんか。全部。



 個性を確かめた時点で、ほぼ確信を得ていた。それでも◎だと信じたくなかったのは、証拠が足りなかったからじゃない。認めたくなかったのだ。◎に忘れられた自分を。自分だけが必死に◎を求めていることを。

 先ほどまでいた丸太にどかりと再び腰を下ろした。先程まで交わしていた会話を思い返す。一刻も早く頭をそれから切り替えたくて、発する言葉を考える。馬鹿ではない頭が、今は言葉を全部忘れたようだった。「うるせえ」なんて一言すら出ない。それを言ったところで全て無駄だと、言葉が出る前に打ち消されていくようだ。

 しばらく無言のままだった。勝己が◎を見れない間、◎は勝己を見つめていたが、動く気配はない。それも、勝己が食べる手を止めているからなのか。喪失感が、視界の遠近感を奪っていった。

「…一々命令するより俺が直接殺した方が早え。言葉のアヤもわからねえで勝手に勘違いして死んだら殺す」

「何を言われても自害せずに勝己に直接殺されるのを待てばいいのね。わかったわ」

 やっと出た憎まれ口には、馬鹿正直で素直に受け止めた返答。自分がそう言ったくせに、正しく要約された内容を聞くと至極胸糞が悪い。始終全く変わらない態度に、本当にわかってんのかよと思った。八つ当たりに近い思考だった。

 かつての◎だったらなんて言っただろう。意に介さない態度で「気をつけなきゃ」なんて笑っただろうか。ああ、どうして、霞みがかっていた記憶が、今になって克明に浮かぶ。◎は朗らかに笑う子供だった。朗らかで大人っぽくて、そのくせに勝己の手を焼かせて、ガキの悪戯もして、聞きたくないことは右から左に聞き流して、…怒る勝己に、よく笑っていた。今目の前にいる女もずっと笑っているけれど、記憶の◎とは違うものに見える。この女の中には何もないから。勝己がいないから。

 声が震えそうになるのを、息を止めて堪えた。こんな時、何も言わずに近くにいたのも◎だった。慰めもせず励ましもせず、ただ傍にいた。逆の立場でもそうだ。自分たちはお互いの一番近くにいた。相手への所有欲は自己愛のようで、特別だったのだ。自分たちは。

 今は。

 そう考えかけて声を発した。喋って強制的に思考を消すために。

「死ぬほどムカつくけどそういうことだよ。俺の知らねえとこで勝手に死ぬんじゃねえ。無視しやがったらあの世から引きずり戻してもっぺん俺がブッ殺す。忘れんな」

「うん」

「あと言っとくがな」

 ◎は動かず勝己を見つめていた。

「てめぇが今まで奴隷としてやってきたことは全部役に立たねえ。余計なこと考えねえで俺が言ったことだけやれ」

「わかった」

「てめぇは何をすりゃいい」

「敬語を使わない。勝己と呼ぶ。勝己がいない間は食事を作る」

「それ肝に銘じとけや。俺に同じこと言わせやがったらてめぇの顔面爆破して二度と見れねぇツラにすんぞ」

 ボボボッ!と掌で連続して小さな爆破を起こした。爆破の閃光に◎の顔が照らされる。冷徹な暖色の中、◎の目はじっと勝己の手の中を見つめ、その視線には何の感情も見えなかった。
 爆破に目を奪われたのか、既に何度か口を滑らせているせいなのか、◎の返事は少し遅れた。

「気をつけるわ」

 声は朗らかで、恐怖心の欠片もない。穏やかな声は一貫したものだった。個性を消すと掌から発していた明かりが消え、◎の顔を見失う。暗闇の中で燃焼の臭いが鼻をつく。その数秒後にまた目が慣れて、薄闇の中に何食わぬ顔でサンドイッチを食べているのが見えた。

 くだらない命令をしていると思った。だが話し口だけでもまともになれば、こんなにイラつくこともない。そう信じたい。



 ◎は死んだ。

 死。
 死。
 死。
 戻らない。
 二度と。
 これは◎じゃない。
 ◎は死んだ。

 そう何度も言い聞かせる。ここに生きているのに、◎はもういない。腹の奥が蠢くように煮える。話せばそのたびにイラつくし、逐一の行動が癪に触る。これはもう顔と個性が同じだけの別の女だ。だが、出来すぎた偶然が奇跡的に重なっているのでなければ、この女は◎に間違いない。◎の体を持つ、別の女。自分で考えて自発的に行動ができない、一人では何もできない女。嫌いなタイプの女。人間のクズ。

(死ね)





 …嫌いなタイプだ。

 だが、死んでるよりマシだ。



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