かつてはいつも隣にいた二人。遥か思い出と。
(♀夢/英雄学/爆豪勝己/十傑パロ「成り上がり勝己と奴隷娼婦notヒーロー志望。」より/購入日)
家に帰ると勝己は椅子に掛けた。それと同時に、テーブルを挟んで向かいにある椅子を顎で指すと第一声「座れ」と言った。自分へ向けられた命令と理解した奴隷は、勝己の言う通りに空いている対面の椅子に腰掛けた。
勝己はしばらく、その女を睨んだ。記憶の中の幼馴染の顔をその女に重ねて、合致する何かを探した。
彼女を見つけた瞬間に記憶がぴたりと重なったのではない。幼かった顔の造形は七年も経てばある程度変わるし記憶は朧げだ。ただ似ているという直感。その女に懐かしさを覚えた。それだけだった。
女の顔は極めて穏やかで、つい先程武力行使で拉致の如く買われたことなどまるで知らないように思えた。目の前で用心棒が一方的に痛めつけられたのをその目で見たというのに。自分はそうならないとでも思っているのだろうか。
「お前名前は」
「ありません。好きにお呼びください」
「今までどこにいた」
「娼婦として教育を受けていました」
「その前は」
「眠らずに石を運び続けていました」
「その前」
「記憶にありません。奴隷は郷愁の念が湧いてしまわないよう、記憶を消されるそうです。私もそうなんでしょう」
「…チッ」
自分の持つ情報と符合できるものがなく勝己は舌打ちした。しかも記憶を消されているのでは、仮に幼馴染であったとしても勝己のことは忘れている。空振りさせられてる気分になり胸が悪くなった。だが、そもそも勝己は別に幼馴染を探していたわけではない。
奴隷の使い道は千差万別だ。いまこの女から告げられたように、生きてこそ役に立つ仕事もあれば、死の伴う活用方法もある。製品加工、臓器売買、個性の実験台。勝己のように命を弄ばれることも珍しいことではない。奴隷の皮で作ったソファというのが存在することも知っている。そんなものがありふれた世界に放り込まれて、生きて再会できるなんて思っていなかった。そんな希望を持ち続けるほど、楽観的な頭ではなかった。
しかしそれは、会えるわけがないと、強く言い聞かせた暗示だったのだろうか。本当のところは生きて会うことを期待していたのだろうか。
だから、◎の面影のあるこの女を前にしている今、もしかしたら◎なんじゃないか、と捨てきれない期待が浮かんできているのか。こいつが◎なら……。それに続けて何を期待したのか、明確なイメージは浮かばない。会えたら、何を話して、どうするかなんて、考えたことがなかった。人を殺してからは、一度も。
勝己の中で、フィルムを散らすように昔の記憶が明滅する。孤独の中で思い出していた時よりも、記憶はいくらか鮮明に浮かんでいた。
力を抜いている手の中で、手持ち無沙汰に指で遊び皮膚を擦る。
「………娼婦ってこたぁ、てめぇ処女じゃねえのか」
「ご安心ください。貞淑は買い手様のために大切に貫き通しております。その方が売り物として価値が出るそうです。私が教育されたのはご主人様に恍惚を得ていただけるよう」
「もういい喋んな。キメェ」
「はい」
この短い会話の間で、かつてないほど勝己はイラついた。発せられる言葉一つ一つにいちいち腹が煮える。買い手様。売り物としての価値。恍惚。吐き気がする単語を微笑みながら当然のように言う。はいと言う返事一つにすら癪に障った。
それらは自分の立場を理解した上で、扱う者に価値観を染められた発言だ。虫唾が走る。これはドブの中でしか生きることを知らない、人間のクズだ。こんな女が◎だとは信じたくない。
期待と願望で回りすぎる思考に目の奥が重くなる。クソ、と内心毒を吐いた。
訊きたいことは山程ある。それらは感情の暴発だ。言葉を伴うものは意外と少ない。次の問いは既に用意できていたが、発するまで勝己は少し時間をかけた。
「…。お前、個性は」
それは個人を特定するのに有効的な問いだと理解している。故に口から零した後、勝己は己の言葉をわずかに反芻した。反芻はどこか後悔にも似ている。
女の声は勝己のその逡巡に反応しなかった。
「温度変化です。私自身の表皮や体温の変化ですが、触れ合うことによって日の照る夏は肌を冷まし、寒い冬は温めて差し上げることができます」
返答は明瞭だった。
温度変化。それは◎と同じ個性だった。
返答を聞いた途端勝己の中に浮かんだのは、遺伝以外で、同一の個性を持つ人間が世の中にはどの程度いるのか、ということだった。これまで出会った人間を思い返し、その中で血の繋がりがなく、同じ個性を持つ者を探した。勝己の経験の中で、その条件に合致する者は皆無だった。
触れ合うことによって夏は肌を冷まし、冬は温める。それはまだ共にいた時分、勝己が◎にさせていたことでもあった。
―――お前、◎か。
その言葉が口をつきそうになった。同時に彼女に名前と記憶がないことを思い出し、開きかけた口を閉ざした。代わりに嘲笑混じりに開き直した口から吐いた声は、やけに空洞だった。
「、はっ。ちっせぇ個性だな。で、テメェは他に何ができんだよ」
「家事全般は一通り。あとは多少ですが楽器の演奏や戦闘を心得ております」
「じゃあその薄気味悪ぃ喋り方なんとかして、俺がいねぇ間は飯でも作ってろや。逃げようとしやがったらぶっ殺す。ドラゴンの火に焼かれたくなきゃ外に出んな」
「かしこまりました。勝己様」
「だから喋り方なんとかしろや!!キメェんだよ!」
自分の結論の出ない思考に、女の喋り方がバチンと触発する。瞬間的に膨らんだ苛立ちに我慢できず女に向けて腹の底から怒鳴った。強い怒声をぶつけられたことに対して女は意に介さない様子だったが、少しだけ困った表情を見せた。
「なんとか、と言われましても」
勝己の怒鳴りに怯まない様子が◎と重なる。そう思うと同時に、この女を◎だと思いたい欲求がある己に気付く。
こんな女が。
そう思いつつも、記憶がなければこうなってしまうのだろうかと、受け入れがたい事実への考察も伸びる。どうするべきなのかを考え、一先ずは無意識に勝己の逆鱗に触れようとするその態度をどうにかしたかった。女相手、◎かもしれないということを全て吹っ飛ばして、怒りに任せて手を上げかねないと思った。それだけイラついた。
「とりあえず様つけんじゃねぇ。勝己だ。敬語以外喋ったことなくても聞いたことくらいはあんだろうが」
「…はい」
「……、てめぇ脳みそ詰まってねぇのか?あ?敬語止めろっつってんだよ」
「……わかっ、た」
家に着いてから交わした会話は決して多くない。にも拘らず、ふつふつと胸に重く積もったのは抗いようのない苛立ち。最後の辿々しい返事に再びクソ、と内心吐き捨て、勝己は苛立ちを詰め込んだ重い溜息を吐いた。ただ普通に話したいだけなのに、どうして一々命令が必要なのか。
◎と別れてからの七年間、彼女は奴隷として過ごして来ていたのだからそれも仕方ないのだろう。◎にとって、勝己は買い手であると同時に主人。扱う者だ。買った瞬間に主従関係が成立する。奴隷を扱う者の価値観に染まりきった頭なら、主人相手に敬語なしで話そうという発想はないのだろう。
奴隷ならば扱う者への口の聞き方がなっていなければ当然のように折檻を受ける。本当につまらないことで暴力の対象になるのだ。勝己がそうだった。だが、折檻で済めばむしろ優しい対応になるのだろう。闘技場で生死が賭けの対象になっていたから勝己は生かされていただけで、本来なら死に値する行動なのかもしれない。だから◎の態度は、長く生きようとする奴隷としては然るべきなのだろう。わかっている。わかっていても、自分と対等だった幼馴染が、他人行儀に敬語を使い、「勝己様」などと呼ぶのは我慢ならない。
奴隷。嫌な響きだと虫酸が走る。勝己は不可抗力に闘技場へ投げ込まれたので多くの奴隷に強いられる仕事をしたことはないが、人権がないのはいずれも変わらない。生きてても死んでても誰も悲しまない。奴隷とはそういう代わりのきく生き物だ。扱う者にとっては。今、◎にとっては勝己がその扱う者なのだ。
「…」
◎の話を聞いているうち、錆びた知識を思い出した。奴隷になった子供の記憶が消される通過儀礼。
闘技場に新しい子供が入ってきた時に、もう記憶は消された後だと監視者が話していたのを聞いたことがあった。ガキは泣き始めると使い物にならねえからな。そんな会話だったはずだ。
その新入りと話したら、故郷のことも親のことも、ここに入れられる前のことも覚えていないという。ただ此処がどういう場所なのかを勝己に尋ねた。勝己は戦って強い奴が生き残る場所だと教えてやった。てめぇは俺が殺す。それまでせいぜいいもしねえ神様にでも泣いて祈るんだな。威圧的にそうも言った気がする。そいつは何かを考えたかったけれど、何にも考えを馳せられないから「そうなんだ」と、少し間を空けて答えただけだった。それだけで、何もないやつだった。
奴隷としてはそれが合理的なのだろう。故郷を想ってメソメソと泣き続ける子供より、鞭で打てば動く何も知らない子供の方が使いやすい。奴隷に感情など不要だ。
◎もそうだろう。従う以外のことは何も知らない。生まれ育った土地も、家族も、勝己のことも、◎の中にはもうないのだ。
(―――勝己はすごいのね)
呼んでもいない思い出が、幼い◎の声でそうふと耳に落ちた。クソ、と奥歯を噛む。
こんなもん買わなきゃよかったと一瞬だけ過ぎる。古い馴染みに会って、どうしてこんな気持ちにならなければならない。
だが、あのまま見過ごして知らない男に買われて、知らない場所で女にされて虐げられて死ぬくらいなら、ここに置いた方が明らかにマシだ。
仮に、彼女が◎でなくても、◎かもしれない女がそんな死に方をするのは殺意が沸くほど腹立たしい。当然だ。◎は、勝己の所有物だったのだ。
◎は何も知らない。記憶がないことを責めるのはお門違いで、それにしがみついている自分は、彼女を前にして唐突に湧いて出た未練に振り回されているだけだ。そんなことにいつまでも執着するのはみっともない。
はあ、と溜息を吐いて、ガシガシと頭を掻き思考を現実に戻した。
「じゃあ、飯」
作れ、と言いかけて口が止まり、台所を見る。
(食いもんねぇんだった)
いつも肉を干している窓辺はまっさらとしていて、食料棚も空だった。そもそも今日は食料の調達のために、日が暮れる前に切り上げたのだったと思い出す。そのおかげで奴隷の運搬と遭遇したのだから、間がよかったのだろう。複雑な気持ちだが。
町まで食いに行くか、と腰を上げる。勝己が立つと◎も椅子から立ち、机から離れると給仕のように姿勢を正す。主人が立ったのに奴隷が座るなどありえない、というのが体に染み付いているのか…。その逐一の行動にまたイラついたが、勝己は無視して自室へ貯えの金を取りに行った。その間、かつて自分が何を食わされていたのかと、◎は何を好きだったのかを思い出そうとした。
人並みなものを満腹になるまで食べるなんてことは当然ない。おそらくそれほど食べれないはずだ。軽いもの。◎が好きだったもの、と考えながら、町の店を思い浮かべる。好物を前にしたら、何か反応を示すかもしれない。
「飯食い行くぞ」
「はい」
「あ?」
「あ。うん、いってらっしゃい」
「…何留守番しようとしてんだコラ。行くぞっつってんだからテメェも来んだよ。決まってんだろ」
「、うん」
また敬語。対等に円滑な会話ができないことにいちいちイライラする。勝己が睨んで圧をかけると、◎は勝己の後を付いてきた。その様子を見て、親の後に続く無警戒な子供が浮かぶ。
記憶喪失になることは赤子返りも同然だと、それを見て思う。人との関わり方も全部忘れているのだ。◎が今まで奴隷として培ったことを役に立たせるつもりはない。一から何もかもが教えてやらなければならないのか。普通の人間がどう過ごすのかを。
クソ、とまた内心独りごちた。
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