轟家での雨宿り。6
襖が開いた時、焦凍は見かけには変わりない様子だったが、耳は過敏にその音を拾った。
…謝ろうか。だが悪いことをしたとはいえ、女子が下着つけてなかったことを指摘するのは相手に恥をかかせることにならないか。黙った方がいいのか。
思考の天秤が激しくぐらぐらと揺れる。出方を決めかねているうちに、◎に振り返るタイミングも逃してしまった。テレビの中はタレントが外国を放浪する旅番組で、現地のコアラが長閑に映っている。他の選択肢を持てない故に、テレビから目が離せなかった。
◎は元々自分が座っていた場所に戻り、少し気まずい気持ちで腰掛けた。ちらと焦凍の様子を伺う。焦凍に何か問われた時になんて答えようかと考えていた。本当のことはあまりにも恥ずかしいので正直に言うつもりはない。幼い子供のような、いわゆる天然な一面がある人だ。事実に気付いてない可能性がある。それならきっと「なんだったんだ?」と訊いてくるだろう。そうした時、なんと言えば誤魔化しがきくのか。
だが予想外に焦凍はテレビに釘付けで、声をかけてくる様子はない。コアラ好きなのかしら、と◎もテレビに目を移す。
気付いて何も言わないのか。居間を出るときに冬美が干渉を制止したから問わないのか。どちらかは不明だ。そもそも気にしていないのかもしれない。
訊いてこないなら、都合よく受け止めておこう。◎はそう思った。
「雨落ち着いてきたわね」
「…おお」
焦凍の返答は遅かった。
(…コアラ好きなのね)
いいタイミングで戻ってきたかもしれない。
内心そうホッとして、◎もようやっとテレビに意識を向けた。
いつもと同じ調子の◎の声を聞いて、焦凍は思った。
黙っとこう。
◎は冬美からトラベル用の使い捨ての下着を譲ってもらった。修学旅行の時に余ったやつだからと話された時に、冬美が教員であることを教えてもらった。フリーサイズのカップ付きキャミソールも貸してもらい、心許なさは解消された。慣れた感覚に安堵する。冬美とは一緒に部屋を出たが、服を洗濯して乾燥機をかけてくると居間の手前の廊下で別れた。
少し雨宿りするつもりだったのでそこまで世話になるわけには、と遠慮したが、「濡れたままじゃ持って帰る時重いでしょ。それに乾かさないと服傷むしカビ生えちゃうわよ」と。甲斐甲斐しいが強い押しで言われ、そのまま流される形でお願いしてしまった。
年上の兄弟ってあんな感じなのかしらと、テキパキした冬美を思い返しながら、兄妹のように育った幼馴染を思い出した。先程の爆豪家にかけた電話も勝己が取ってくれたが、同い年でも年上気質なのはどちらかといえば勝己の方だろうなと思う。
(そういえばだいぶ遅くなっちゃった)
電話を掛けた時は、今の時間には既に家に着いている心算だった。具体的に何時に帰るとは伝えてはいないが、そろそろまた連絡しないと夕飯の有無を心配されそうだ。
旅番組の映像がスタジオに戻った辺りで、ここから家に着くまでの目安を計算しようと壁掛け時計を見上げた。電車の乗車時間と駅から歩く時間。この家から駅まではとりあえず二十分くらい時間を見ておけばいいか。雨で歩くのに平素より時間がかかるから更に十五分ほど余裕を見て…トータルすると結構かかるな、と思考。
今すぐこの家を出れば、おそらくいつもの夕飯の時間にギリギリ間に合うか、少し遅くなるくらいだろうか。しかし洗濯してもらっているから今すぐには出られない。今日のところは爆豪家には夕飯不要と伝えて、帰ってから自分で作ればいいか。
家に着けるのは何時くらいになるだろうかと考えると、小さく溜息が出た。
(雨の中帰るのダルいなぁ…また靴濡れるし)
勢いが弱まったとはいえ、雨は依然降り続けている。時計を見上げながら頬杖をつき、早く帰りたい反面、この家から出たくないなと惰性が巡る。しかし時間的に、洗濯が終わった後すぐ帰らなければかなり遅くなってしまう。思い出したように耳を澄ますと、傘がなければ濡れ鼠に逆戻り間違いなしの雨音。雨の具合に関わらず帰らなきゃと思いつつ、憂鬱な気持ちで小雨になることを祈る。
瞬間移動の個性が欲しい、と怠惰極まりない短絡的な願望が渦巻いていた。気怠さと退屈さに無口を続けていたが、背後の襖が開いて冬美が顔を出して◎に呼びかけたので、姿勢を直して振り返った。
「ねえ、●さんってお住まいどこ?」
「折寺です」
「結構あるのね。いま洗濯機回したから後一時間半くらいはうちに居てもらうことになっちゃうけど、お家の門限とか平気?」
「門限はないです。…一時間半」
呟き、再度居間の時計を見上げた。先程計算した時間にプラス一時間半。電車の発車時間によっては九時を回るかな、と計算する。連絡を入れているし帰宅の時間で叱られることはないが、後倒しになっていく帰宅への怠さは否めなかった。
◎の様子を見て、焦凍も時計を見上げた。折寺の場所がどこかはわからなかったが、今から一時間半後に轟家を出たら帰宅まで時間がかかるのだろうとその様子から推察した。その時間には外はもう真っ暗だろう。電車から降りた後は家族に迎えに来てもらって、ここから駅までは自分が送った方がいいかと思考した。
駅まで送って行く。そう口を開こうとした直前、冬美が付け加えるように言った。
「どうする?泊まってく?」
「え?」
「は?」
◎と焦凍の呆気にとられた声がきれいに重なった。
確かに帰るのがダルいと思っていたし、泊まらせてもらえるなら渡りに船だが、自分達は互いの家に宿泊するほど親密な友人ではない。かなり魅力的な誘いだが、乗る気にはなれなかった。意表を突かれ、◎は咄嗟に社交辞令的に笑った。
「いえ、そんな」
「子供が遠慮しないの。ね? 洗濯機かけちゃったし」
「えっと…」
重ねて繰り出される厚意を無下にすることが憚られて、◎は頼る気持ちで焦凍を見た。彼もこの家の住人だ。赤の他人が一晩同じ屋根の下にいることに対して抵抗はないか。その確認は必要に思えた。
だがそんなものは建前で、おそらく彼は帰宅を勧めてくれるだろうと思うからこそ判断を煽ったに過ぎない。焦凍が友達を招いてお泊りというイメージが全くなかったのだ。だから彼の一存に任せてそれに乗るつもりだった。
求められるような視線に焦凍も◎を見た。判断を委ねられている。この家に連れてきたのは自分なのだから誘導してやらねば。
口を開き、焦凍も突然のことに判断力が上の空のまま答えた。
「…うちは別にいい」
暗いし雨だし、部屋も布団も余っている。迎える分にはなんの問題もない。遅い時間になってから女子を帰すよりも泊まっていった方が安全だろう。そう思う傍ら、もっというべき言葉が別にあったのではないかと頭の中で他の選択肢を模索した。だが、どういう答えならば妥当だったのか納得するものを見つけたところで、既に声にした回答を覆そうとは思わなかった。
焦凍の口から出た予想外の言葉に、え、と目を見開く。そんな気軽に泊めさせるものなのだろうか。焦凍と冬美を見て、二人とも◎の返答を改めて待っているのがわかった。わずかに動揺を残したまま、半ば呆然と◎は答えた。
「…それじゃあ、お言葉に甘えて。お世話になります」
それを聞いた冬美はニコッと笑った。わかった、これから夕飯作るから待っててねと言い残し、上機嫌で台所に歩いていった。
prev next