疑似喪失。:傷の在り処は。
待合室に人はまばらだったが、通りかかった時に方々から密かに向けられる好奇の目を感じた。平素ならばそんな目を向けられるのは勝己だけだが、今は違う。彼らは顔中に包帯を巻いている◎を物珍しげに見ている。その方が強かった。
何見てんだ、コラ。
コソコソと遠巻きに見ている連中に腹が立って、声にしないながらも勝己はそう思い辺りを睨んだ。それに気付いて慌てて逸らされる視線にまたイラついた。だったら最初っから見るな。そう思った。
自動ドアを抜けて外に出てしばらく歩く。公園まで歩いて、座らせて電話させるつもりだった。
視界の端で◎の腕が動いたのを捉えて、勝己は目をそちらに向けた。持ち上がった手は頭に触れ、後頭部から髪を摘むと、軽くひっぱって毛先まで指を滑らせた。記憶より遥かに短い場所で髪の感触は終えた。
「髪燃えちゃったのね」
ぽつりと静かに落ちた声は、喪失感のみで発せられたような寂しさがあった。
「伸びんだろ、そのうち」
「長いの、好きだったのに…」
「どっちでも変わんねぇよ」
生きてりゃ。
と、心の中で続けた。
◎は答えなかった。
外はもう暗い。
隣を歩いているのが◎とわかっているのに、見知らぬ誰かがすげ変わって、◎はまだ目覚めていない錯覚をした。
◎は左側の、痛みのない部分の頬をそっと撫でた。包帯は全体に巻かれているが、火傷をしているのは右側だけのようだった。自分の体なのに、どの程度の範囲でこの顔に火傷を負っているのかわからない。知りたかったが、見たくない。
医者の言葉が巡る。そういう職業だからこういった怪我もよく見るのだろうし、◎よりもひどい怪我だって何度も見たことだろう。それでも怪我に対する説明があまりにも義務的であっさりしていた。神妙に語られるよりも、聞く方はその方が楽なのかもしれない。
…だけど。
「………顔、火傷した」
か細く漏れた声は湿り、震えた。
隣からのその声に内心でビクとする。◎に泣かれると、一瞬体が硬直する癖があった。苦手意識を刺激されるからだという自覚はある。慰められないからだ。優しい言葉なんて持ってない。それでも何かひり出そうとしたが、失敗した。
だから湿った声には気づかないふりをした。
「残んねーよ」
「うん」
「医者が治るっつってんだから治んだろ。話きっちり聞いてろや」
「…うん」
力無い。暗くて見えなかったが、目に涙が溜まっている様が克明に浮かび、勝己は◎から目を逸らす。泣くなよ。平素なら何も考えずにそう言えるのに、迷った。些細な言葉で傷付けてしまいそうで。
………イラつく。
メソメソされるのも、弱々しい面を見せられるのも、いつか消える火傷に落ち込んでいるのも。いつか目覚める◎に、心が掻き乱れるほど不安を煽られていた数十分前の自分は棚に上げた。
勝己が泣いている人を慰められないことを◎は知っている。だから◎が意図的に泣いていないとわかっている。
なのに、救いの言葉ひとつ浮かばない。
「………」
不甲斐なさを感じたが、それも望む形に昇華せずにイラつきに変わっていった。舌打ちの後に頭を掻き、はーとわかりやすく溜息を吐く。
…違う。
(こいつと話すのに、なんで気ィ遣ってんだ俺は)
ガラじゃねぇ。内心そう呟く。
自分が◎の救いになりたいわけではない。顔が焼かれたことにショックを受けるなと言うつもりもない。
―――ただ、
「調子狂うんだよ」
「うん」
◎がどんな気持ちでいるのか、どんな言葉をかけてやるのが妥当なのか、そういう性分に合わないことは考えないことにした。餅は餅屋だ。不得手なことをしたところで好転するとも思えない。心から思ってない薄っぺらい言葉など、言っても言わなくても同じことだ。
勝己は「仮に残ったところで」と続けた。
「そこらのモブに見られたくねんなら、うちでずっと本読むなり話書くなりしてりゃいいだろうが」
―――ただ、いつものように笑って欲しかった。
無茶だとわかっていても。
くん、とポケットに突っ込んでいた腕を取られる。振り返ると◎は足を止めて俯いていた。空いた手は甲で目を拭っていた。
「…」
「ごめん」
風の音とも思える程微かな声。泣き声も嗚咽もないが、鼻をすする音がした。
ただ立ち止まって、◎が静かに泣くのを見る。何か言葉を上乗せするつもりはなかった。
勝己は嫌じゃない?
顔に火傷が残ることに、その問いがはっきりと言葉として浮かんだ。あとは声にするだけでその問い掛けは成立するのに、◎はそれを言わなかった。嫌だと言われるのが怖かった。きっと勝己はそれを言わないのに、言えなかった。
優しい言葉だけを掛けられたかった。今立っている脆い足場は、指先が掠るようなほんの僅かな刺激だけで容易く崩れ去ってしまいそうだ。
不安な気持ちを胸に押し込める。せめてこの気持ちが明確な輪郭を作らないように、何も言わないで勝己の言葉だけを反芻する。顔が焼けた今の◎にとって、勝己の言葉は拠り所にできる唯一の優しさだった。実際に真意はなくて、ただ言葉通りに思ったのかもしれないけれど、優しいと◎は受け止めた。
音もなく流れる涙は、顔に巻かれた包帯を静かに濡らした。その間何も言わずにただ傍で止まっていてくれる。そのことすら優しいと思うのは、自分の心が限界まで弱っているからだろうか。
「…、………勝己が泣かせた…」
「あ!?てめっ、俺のせいにしてんじゃねぇぞコラ!」
「…ふ」
涙は止まらないのに、笑ってしまった。
不意に心外なことを言われた怒鳴り声はいつも通りで、つい声が零れた。
泣いてるんだか、笑ってるんだか。
自分にそう呆れたが、心はシンプルだった。
…嬉しかった。
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