疑似喪失。:遅れてきた現実。






 当然といえば当然だが、勝己の怒号は他の病室まで響き渡っていた。何人もの患者が驚いてナースコールを押し、ステーションは大変な状態だったらしい。駆けつけた男性の看護師は状況を見て、発端の勝己は怒られていた。
 今回何もなかったからいいけど患者さんによっては驚いて容態が急変する場合もあるとか、そもそも病院で大きな声を出しちゃダメとか、云々。

 第三者が来て冷静になった勝己は己の非を認めてはいたが、それを見ている◎の目が微かに笑っているのをふと見ると「てめェのせいだぞ…」とでも言いたげに睨みつけていた。

 しばらくすると担当医がやって来て、◎に声をかけ、痛みの有無や気分が悪くないかを訊ねた。◎は自分の感覚に意識を向けながら、腕や胸や顔面がジクジクと痛む。喋ると、口の周りにビニールが溶けて張り付いているような感覚がする。そう告げた。医師は◎に怪我の状態を説明し、口の周りの感覚は火傷治療のためのシートを貼り付けているせいだと伝える。◎は言われた言葉に返事をしなかった。勝己は椅子に掛け窓の外を向いたまま、病室の中で発する医師の言葉と、無言で聞いている◎の様子を空気で感じていた。

 今は火傷の痕がほとんど残らない医療技術が進んでるから、退院する頃には綺麗になるよ。治癒の個性を持つ看護師もいるから入院も長くはないよ。医師はそう言ったが、◎は上の空で聞き流していた。

 鎮痛剤を与えるとまた明日改めて、と、医師と看護師は出て行った。看護師は出て行き際勝己に、面会時間が終わったらちゃんと帰ることと、再度大声を出さないようにと釘を刺した。勝己は「わーってるよ」と不機嫌そうに返した。横柄な態度に半信半疑の様子だったが、そのままドアを閉めて出て行った。




 ◎はじっとしばらく動かないでいた。膝の上に置いた包帯だらけの自分の手を、距離感が麻痺するまで見つめていた。その間、愚鈍な頭の中で医師に言われた言葉を考えていた。
 その間は勝己から話しかけることもない。ただ、暗い外に混じって窓に映る病室と、その中にいる◎を見ていた。

 数分そうしていたと思う。やがて◎は伏せていた目をすっと上げ、浅く息を吐いた。サイドテーブルにある見舞いの品に目をやるとポストカードを手に取る。

「電話しなきゃね」

 声は笑っていて明るかったが、痛々しかった。
 空回ってる◎の声に、勝己は答えなかった。







 病室を出る前に、◎は鏡の前に立った。壁にかかった鏡で自分の顔を見ると「わあ。ミイラみたい」と平坦に言った。わー…と、現実に傷を負った我が身を見て、失意が声を吐く。
 先に入り口のドアに立っていた勝己は、鏡の前でまた気持ちが落ちてる◎に向かって声を張った。

「おい、さっさとしろや。時間ねんだよこっちは」

「うん」

 ◎は鏡から目を離さないままゆらりと一歩動き、数歩進み目を伏せると勝己の傍に立った。



 ミイラみたいという◎の言葉はその通りで、顔の包帯は目と鼻と口以外を覆っている。肩についていた長い髪は燃えて、少年のように短くなっていた。
 変わり果てた己の姿に力を無くしているのは言わずもがな。弱々しい様子の◎に、勝己は距離を測りかねていた。


 自分たちは対等で、競争関係ではない。力比べをすれば勝己が圧倒的に強いし、社交性で優劣を測れば明らかに◎が秀でている。だけどそれは、二人の間には必要のないことなのだ。自分たちは互いにいつも自分の望むことをやっている。意識的に相手を助けてやることなんてしない。自分の窮地は自分で脱する。それができる信頼関係が二人にはあった。


 なのに、今の◎は弱かった。


 きっと何か励ましの言葉をかけてやるべきなのだろう。だけどそんなものは勝己の言葉の引き出しの中になかった。軽はずみな言葉を吐けば不用意に傷つけてしまいそうな気がした。いつものようにしてほしいのに、どうすればいいのか思いつかず、心が居心地悪く燻った。

 濁る心情に、それでも、と反論する。
 一時間前までよりはずっとマシだ。◎は目を覚まして、話して、自分の隣を歩いている。医者が言う通りに怪我が治れば何も心配することはない。◎はきっとまた朗らかに笑う。




 上の空の◎に、子供の時のように手を繋いでやりたくなった。そうすれば測りかねた距離をリセット出来るかもしれないと思えた。

 だがそれすらも下手な慰めになってしまうかもしれないと、不意の衝動は胸にしまった。



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