轟家での雨宿り。4
出かける前に見た予報では、一時間で止む程度の天気雨。それが今見た予報では、一晩降り続けると情報を更新していた。
◎は携帯端末の天気予報を見て、いつ帰ろうか悩んでいた。小雨になるのを待っているが、外はまだざんざん降りだ。
焦凍はもともと多く喋る質ではない。◎も必要以上に饒舌ではない。点けたテレビをなんとなく見ている間に時計の短針は二回回った。その間に他人の家にいる緊張はそれなりに解けていた。
「そういえば、誰もいないの?」
暇そうな声でぼんやりと発せられた声に、焦凍は「ああ」と返した。とっくに冷めきった湯飲みを手に取り口をつけたが、中身は空だった。
「ふうん…」
◎はじっとテレビを見つめたままで、焦凍が空の湯飲みに口をつけたことには気づいてないようだった。
それまで気にしなかったのに、焦凍は急にこの広い家に二人しかないことを思い出した。そして、◎の質問の意図を深読みした。深読みするような他意はないとは重々承知しているが、勝手におかしな想像をしてしまったのだ。
気を逸らそうと、ポットのお湯を急須に注ぐ。急須の中の茶葉は既に二番煎じを通り越していたが、飲めれば同じだと気にしなかった。
が。私も、と正座して姿勢を改めた◎から湯飲みを差し出され、焦凍は動きを止めた。しまった。茶葉を足していない。茶葉が開くことに気を遣って急須を温める人に、出涸らしの茶を出していいものか。空の湯のみと、◎を見比べる。
「もう三番煎じくらいだぞこれ」
「うん」
「薄いぞ」
「?うん」
◎は気にした様子はなく、それがどうかした?と言いたげにじっと焦凍を見る。目を合わせることができずに視線を手元に落とした。意外と大雑把なのか、と彼女の性格を推察する。
「いや…。いいなら、いい」
ポットのお湯を急須に注ぐ。
何故か急に、◎が着ている服に動揺してきた。自分で渡したジャージだ。無論、焦凍のものである。身長やら男女の対格差やらで、自分より体が小さいのはわかっていた。だが、どの程度昔の服を渡せばちょうどいいのかわからず、結局自分が最近着ているTシャツとジャージを渡した。想像通りというか、着られた服は明らかにサイズが合っていない。
どうしてそんなことに今更気が向くのか自分でもわからなかった。◎がこの家に来てから二時間強、ずっとその服を着ていたというのに。
今更、妙に緊張した。
…何意識してんだ。
普通だろ。ただの雨宿りだぞ。
悶々と急須を回す。
◎は手持ち無沙汰に焦凍の手元を眺めている。見るな。動揺してんだ。察するな。そう考えながら、挙動不審な動きをしないように注意を払う。手には思惑が出やすい。何か勘付かれたら誤魔化せない…多分。指先の動きまで神経質に意識した。
いや、そもそもなんで動揺してんだ俺は。
「「あ」」
がしゃん。
二人の声が重なった直後、出涸らしの茶を注いでいた急須の蓋が落ちた。陶器の蓋は湯飲みに落ち、湯飲みは倒れ、中途半端に注がれた茶がテーブルの上に溢れた。幸い、急須の蓋も湯飲みも割れなかった。
「大丈夫?」
「ああ…悪ぃ」
「布巾、台所にある?どこ?」
「俺持ってくる。触んなくていい」
腰を上げようとした◎を制して、焦凍は席を立った。
逃げるような気持ちで廊下に出て、テレビの音と雨音に紛れると思って溜息を吐いた。
はあ。
(何してんだ…)
情けねえ。
完全に我を忘れている自分を自覚し、頭を冷やせ、と自分に言い聞かせた。滅多にない状況に、変な考えを持ってるだけだ。
自己暗示しながら、焦凍は台所に行った。
ガラガラと引き戸を開ける音が聞こえた。玄関の戸だ。閉まるまでの間に強い雨音も家の中に響いてきた。
「ただいまー」
姉の声だ。焦凍は濡らした布巾を固く絞った後、玄関に向かった。二人きりじゃなくなればおかしな考えも消えるだろう。だけどそもそも、最初から姉が家にいればこんな我を忘れることもなかったんじゃないか、と半ば八つ当たりの気持ちを携えていた。
冬美も足元を相当濡らしたらしく、玄関に腰掛けて靴下を脱いでいた。
「おかえり。どこ行ってたんだ」
「あ、焦凍。ちょっとお友達とご飯食べに。まさかこんなに雨降るとは思わなくて帰るのに時間掛かっちゃったわ」
「…そうか」
理由を聞くと、なら仕方ないなと思い引き下がった。そもそもどんな理由を言われても納得せざるを得ないことは承知している。焦凍が動揺していたのは決して冬美のせいではないことも重々承知だ。
当然ながら冬美の声には一切の悪意がない。焦凍は冬美の返答に対して短く相槌した。
「…いま、客いるから」
ぽつりと落ちた一言は、まるで悪いことを告白するような呟き程度の声だった。言い終わると同時にぺたぺたと歩き出し、焦凍は居間に向かう。自分の発言に対する冬美の反応を見るのを避けようとしたようだった。
客。
焦凍の口から出るには耳慣れない言葉だと、冬美は一瞬動きを止めた。聞き間違いとすら思った。今このタイミングで客がいるとすればおそらく焦凍の知人だろう。冬美の客ならそれを言うはずだ。焦凍が家に誰かを招くなんて至極珍しい。珍しいどころか初めてでは。
「え、ちょっと焦凍」
冬美は半ば耳を疑い、勢いよく焦凍を振り返ったが、すでに居間への襖の中へと入っていったところだ。
「…客?」
焦凍の台詞を反芻するように声を零す。冬美は玄関を見渡した。来客があるならば靴があるはずだ。ひどく驚いたが、この雨だし、もしかしたら病院の後友達と会ってそのまま家に連れて来たのかもしれないと思考を巡らせる。まあ雄英の体育祭以降落ち着いて来たし、あんまり大げさに捉えることもないのかな、と努めて冷静に考えながら、目に留まった見慣れない靴。
女物だった。
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