轟家での雨宿り。1






(♀夢/英雄学/轟焦凍/notヒーロー志望)



 茶。

 あいつ昼ん時サンドイッチとかオムライスとか洋物ばっかり食ってた気がする。あとカフェオレよく飲むって麗日たちと話してたか。コーヒーとかの方がいいのか?でもうちにコーヒーなんてあったか?でもまあ日本人なんだから煎茶飲めねぇってこともねぇだろ。

 台所で茶筒を手にしながら、焦凍はそんなことを考えた。窓の外は叩きつけるようなざんざん降りの雨。風の音はすさまじく、台風のようだった。濡れた服は脱いだし、その上で体も髪も拭いたが、肌はまだ湿っぽい。いっそ頭から風呂に入った方がいいと思える見事な濡れっぷりで焦凍は帰宅した。

 なのに何故それをしないのか。理由は単純明快。客を招いたからである。


「轟くん、濡れた服干すのにお風呂場借りてるわね。洗面所にあるハンガー勝手に使っちゃったけどよかった?」


 声を掛けられて初めて近くにいることに気づいた。激しい雨音で足音がかき消されていたのか、それともこの状況に冷静さを欠いているのか。焦凍が顔を上げると、焦凍の部屋着を身に纏った◎が顔を出していた。

「ああ…大丈夫だ」

「よかった、ありがとう。ああ、雑巾ある?玄関拭いておくわ」

「いや、いい。俺やる。客だろ」

「そう…?じゃあお茶、私が淹れるわ。全部やってもらうの居た堪れないから」

「いや…。ん…じゃあ頼む」

「うん」

 ◎が台所に入ってくるのと入れ違いに、焦凍は台所から出て掃除道具をしまっている物置に向かった。

 自分の服を自分以外の誰かが着ているのを見て、妙な心地になった。










 どうして◎が焦凍の家にいる状況になったのかというと、成り行きである。

 母親に会いに病院へ行った帰り道、突然激しい雨に降られた。三秒前は晴れだったのに、本当に突然降ったのだ。必要最低限の荷物しか持たなかった焦凍は傘を持たず、手近な庇の下に逃げ込んだ。それでも吹き込んでいたので足元は濡れたが、しかし無いよりマシである。

 空はどんどん暗くなっていった。時計の針は昼を示しているのに、どんよりした空は日が暮れたようだった。もうこれ濡れるの覚悟で帰った方がいいか?と何度か考えつつ、雨が止むのを待った。
 あと五分しても止まなかったら走って帰るか、たまにはいいだろ。そんな潔いことを考えていた時、足元に風に煽られて開いた傘が転がってきた。薄葡萄色の女物の折り畳み傘だった。焦凍は足で傘の進行を止めた後、拾い上げて辺りを見回した。鞄を抱いて焦凍の方に走ってくる女性がいたので、あの人のか、と思った。女性は焦凍がいる庇の下に駆け込み、「すみません」と声をかける。

「それ、私のです」

「あ」

「え?」

 雨に濡れた前髪を掻き分けて顔を上げたのは、◎だった。

 ◎は驚いているんだか関心がないんだかよくわからない「わあ」と平坦で能天気な声を出した。

「轟くん。なんだかこの辺りで縁があるわね」

「おお」

 数ヶ月ほど前、二人はこの周辺で会った。まだ◎が雄英に編入する前のことで、その時の焦凍は迷子の女の子に泣きつかれていた。交番まで連れて行こうとした途中、女の子が◎の後ろ姿を見て母親と勘違いし、結局二人で交番まで連れていったのだ。
 二人の出会いだ。当時焦凍は◎の名前を知らなかった。

 焦凍から傘を受け取り、◎は一度それを畳んだ。しゃがみこんで鞄からハンカチを出しながら焦凍に声をかける。

「雨止むと思う?」

「わかんねえ。降ると思わなかったしな」

 庇の下から外を眺める。大粒の雨は地面を叩きつけると弾けて跳ね返り、傘を差して歩いたら雨音が煩そうだと思った。頭から濡れた◎はハンカチで体を拭いていたが、この大雨では申し訳程度にしか水気を払えないだろう。
不意に◎に視線を下ろすと、背中を横切る黄蘗色の布が、白いシャツ越しに見えた。

 雨で透けてる。そう気づいて焦凍は顔ごと目を逸らした。

「●。これ着ろ」

 自分が着ていた黒い上着を脱ぎ差し出す。◎はぱちくりとしていたが、服が透けていた自覚はあったのか、焦凍の行動の意図を悟って上着を受け取った。

「ありがとう。言わなければ気付かないかなって思ってたんだけど」

「…別にそういうつもりで見たわけじゃねえ」

「ふふ、ごめんね。私もそういうつもりで言ったんじゃないの」

「いいから早く着ろ。ちょっと濡れてっけどないよりマシだろ」

 目線を逸らしたまま促すと、視界の外で衣擦れの音が聞こえた。動きが止まったしばらく後にちらと見ると、上着を羽織っている姿が目に映った。ほっとして視線を前に戻す。雨の勢いは少しだけ弱まっていた。

「轟くんって紳士ね」

「普通だろ」

 ◎は傘を持っているためそのまま帰ることもできたが、焦凍から上着を借りたまま先に帰るという選択はしなかった。ここにぽつんと一人取り残される焦凍を想像したら、先に立ち去るのは非情に思えた。雨の予報は一時間だけだったので長く降り続けることはないだろう。
 雨が止んだ後も上着は借りることになるかもしれないが、同じタイミングで帰れるならばその方が後腐れない。借りたものは後日お礼のお菓子でも添えて返そう。
そう考えながら降り注ぐ雨を眺めていた。










 っくし。










 しばしの後、小さなくしゃみが聞こえて◎は焦凍を見る。焦凍は顔を外方向け鼻をすすっていた。
 ふと彼の体に目線を下ろすと、焦凍のシャツは肌に張り付いていて、頭から全身濡れている。しかも上着は◎が借りている。◎は半ば無意識に個性で体温調整していたが、もしや雨で気温が低いのかと気付いた。濡れた服に体温を奪われているのかもしれない。

「大丈夫?もしかして寒い?」

「…いや」

「よかったら送って行くわ。雨脚弱くなってきたし」

「いや、いい。大したことねえ」

「私のせいで風邪ひいて欲しくないの」

 傘を差し、◎は自分と焦凍が入るように踏み出した。日常生活でのそれよりかなり近い距離感に、焦凍は一歩引きそうになる。いいって。そう言おうとした。

「ヒーローなら心配させないで」

 妙に切実に出た言葉に、焦凍はそれ以上の発言を飲んだ。

 ヒーローなら。

 それは、ヒーローはこうあるべきだというイメージがないと出ない言葉だ。今、◎はどこかの誰かのヒーローのことを考えている。
 …それはもしかしたら、と浮かんだ人物がいた。

 昼食時、出久のヒーロー語りを聞きながらも、◎はいつも「どんなヒーローなの?」と尋ねる。エンデヴァーや、ベストジーニスト、シンリンカムイなんて、誰でも知っているようなヒーローでも、それでも◎はその問いかけをする。そんな◎が思い浮かべるヒーロー像とは。

「………そうだな」

 二人は同じ傘の下に入り、庇から外に出た。
傘の中央、◎に近い場所にある半身は温かく、歩くにつれ寒さを忘れていった。



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