疑似喪失。:不安の吐露。
(………腹減った)
帰るか、と静かに思う。どれだけ不安に思っても腹は減る。帰った食卓は今日も一人足りないままだが、それとこれとは別だ。食事が喉を通らないほどか細い神経ではない。生きるためにやらなければならないことをやる理性はある。ヒーロー志望なら、そうでなければならないのだ。
(鞄、持ってこねぇと…)
のっそり腰を上げ、勝己は病院へ戻った。
ずっと俯いていた顔を上げると、一瞬で陽が沈んだように暗くなっていた。
既に受付時間は終了しているようで、来院した時より待合室に人はいない。ちらほらといる患者は健康そうな人たちばかりが目について、心に黒い靄が漂った。
起きると理性でわかっていても、その時を迎えるまで今の気持ちは払拭できそうになかった。
◎の病室を開けると暗いままだった。そりゃ寝てるやつの病室は電気点けねぇわな、と思考して、勝己は電気のスイッチを入れた。暗さに慣れた目を気遣うように、暗い点灯から明度が上がっていく。
病室の中は何も変わってない。
もうこの病室を見たくない。瞼を開けていることすら億劫に思える。
伏せたままの視線でベッドの脇に行く。改めて◎の顔に目をやるが、それもまた、嫌になるくらい見慣れたものだ。たった二日しか経っていないのに。
どんな形でもいいから、この姿から変わってほしいと思った。
はァ、と息が漏れる。帰りたくないと心のどこかで思った。
ベッド脇に手をつく。いつもの数分の一くらいしか力の入らない体を支え体重をかけると、軋む音が僅かにした。
「…クソ◎」
弱い呟きに返事はない。「当然」。誰かにそう告げられているようだった。
―――…。
「…勝己…?」
―――瞠目。
幻聴と思い一瞬硬直する。自分はそんなに追い詰められているのか。
だが、失意の自覚はあっても現実逃避はしていないと我に返る。それを見るのは躊躇いがあったが、ゆっくりうな垂れていた顔を上げた。同時に、ベッドについた手に包帯が触れる感触がした。
◎。
目が開いている。
それも一瞬、幻覚かと思った。
「…、」
◎、と呼びそうになって、声が出なかった。
目覚めることをずっと望んでいたのに、何故「嘘だ」と言葉が浮かぶのか。
止まった思考でただ◎を見るしかできない勝己に、◎はぼんやりした瞳を向けたままその手に触れ、指先に力を入れた。
その力はまるで小さい赤子のようだった。ほんの僅かな力しかない弱い生き物が、必死に力を入れているような。
「ど、したの…」
ノイズが混じったような掠れた声だ。発声の不快さに◎は顔を逸らし、口を結んだまま小さく咳払いした。その様子が非現実味を打ち消していって、急に視界が開けていく。
口を開く。声は数秒遅れに出た錯覚がした。
「お前」
事実を確かめるように呼んだ。お前本当に◎か。
◎はのろのろと勝己を見た。まだ半分夢の中にいるような顔に見える。
「………◎」
勝己は◎を見たまま体を起こし、ゆら、と近付いた。二人の視線は交錯したまま、勝己は◎に手を伸ばした。
―――ゴッッ!!!
そんな音が本当にした。
◎は頭に受けた衝撃に一瞬目が白黒した。あまりの痛みに意識が飛びそうになったが、強張った全身は気絶させることなく、ただ◎は理不尽な暴力の余韻に堪えることになった。
「―――〜ぃいっ……!!」
締めた喉の奥から高い声がくぐもって漏れる。夢心地だった感覚は瞬時に醒め、頭の痛みに全ての意識が向く。しかし畳み掛けるように勝己の怒鳴り声が◎に降りかかった。
「てっめ…!!こん…っの馬鹿野郎!!!」
病院の階全体に響き渡るような怒号だった。
勝己は◎を殴りつけた拳を強く握り痙攣させながら、パンクしかけてる頭の中から言葉を引き摺り出す。
「弱ぇくせに!身体張ってんじゃねえよ!!!!」
病室は勝己の声にぐわんと震える。静かだった空間に怒鳴り声が木霊する。◎は呆然としながら、じんじんと熱を持つ頭の痛みを只管に感じて勝己を見る。
…まだ夢心地が続いているのだろうか。この地上には二人以外には誰もいなくて、病室の外まで遥かな静寂が続いているように思えた。
「………っ」
次の言葉を言おうとした勝己は口を開いたが、嗚咽のような息が一度漏れた後、何かに堪えるように歯を食いしばった。左手で目を覆い真下に俯くと、握った右の拳でベッドをぼふっと殴った。
はぁっ、と息が溢れる。心があれこれと鬩ぎ合う。肩を怒らせ、息が震えないように喉に力を入れた。締めた喉から無理矢理出した搾りカスの声は、その言葉を紡ぐ。
「死、ぬかと、思ったろうが…っ!」
死。
それはもっと、どこか別の場所で発するべき言葉のはずだ。そう思いながら◎はその言葉を聞いた。他人事のように。だが勝己の声は、それを言葉にするのを躊躇うような切実さが滲んでいて、ひどく危うかった。きっと勝己は本当にそう思ったんだ。◎はそう思った。
勝己は浅く荒い息を繰り返し、冷静さを取り戻そうとしているようだった。◎は話し方すら忘れたような気がしたが、この空白の間に思考は自我を取り戻し、それに引きずられるように、ヒリヒリとした右腕から痛みが蘇る。痛覚も徐々に目を覚ましていくようだった。
頭の闇の中で細い糸を手繰り寄せ、それがだんだん広がっていくように記憶が蘇っていく。
買い物。
商店街。敵。…腕に被った液体。襲いかかる大きな手。すごく近くで見た大きな火。アスファルト。たくさんの足。遠くで聞こえる喧騒。水。サイレン。浮かぶ我が身。…微かに届いた勝己の声。
それらは後半になるほどに朧げで、現実と結びついているかは不明だ。そんな気がした、という程度の記憶。全てではないかもしれないが、この自分の状況と勝己の様子を見れば、大半は正しく残っているのだと把握できた。
ぱた、と、本当に小さな音が聞こえた気がして、見るものに意識を向けた。勝己は深く俯いたまま、目を拭っている。ベッドのシーツには水滴の跡があった。鼻をすする音と、は、という息まで聞こえた。
…まだ夢を見ているのか。自分が見ているものを疑いながら◎は慎重に口を開いた。できるだけ刺激しないように。
「………勝己、泣いてるの?」
「ッ…ワケねぇだろ!この俺が泣くか!」
勝己は顔を上げてそう怒鳴ったが、外方向いているので表情は見えなかった。
それは、勝己ならそう言うだろうなという想像とぴったり合致して、安堵して◎は小さく笑った。声はなく、笑った息に合わせて腹部が空気で膨らむ。
笑ってんじゃねえよ、と内心で勝己は吐き捨てた。
それを口にしたら声が震える気がして、未だ◎の方を見ないまま黙る。緩んだ涙腺をすぐにでも締めたくて顔をしかめていた。
みっともない姿を見せたくなかった。
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