18。:苛立ちと失言と。






 洋画が終わりエンディングロールが流れた瞬間、勝己がやっと終わったかと言いたげに盛大な溜息を吐いた。

「こいつら全員アホだろ。終わりまで胸糞悪りぃ」

 ドッと疲れた口調でそう言った。◎はうーんと否定とも肯定とも取れぬ唸りを漏らす。
 クラスメイトに勧められて借りた映画だ。確かに後味が悪い話だった。そして話の設定と展開には少々疑問が残る。映画の元となったゲームは面白いそうなのだが、この映画を見た後にそのゲームをプレイしようとは思えない。だが登場人物はそれぞれで複雑な関係をしており、彼らの行動を見るのは面白かった。
 エンドロールを流し見ながら、◎は勝己に答えた。

「追いつめられた人間がどういう行動とるのかってところは嫌いじゃないけど」

「クソしかいねえじゃねえか。つーか、そもそもあんなメンツで山なんざ行かねえわ」



 お話はこうだ。
 アメリカの大学生八人が、クラスの友人同士で雪山のペンションに遊びに行く。その中にはクラスの人気者でハンサムな男の子がいて、その男の子に憧れている内向的な女の子も誘われるままに同行した。
 男の子が女の子を部屋に誘い、服を脱ぐように誘導。それを部屋に潜んでいた他の数人がビデオ撮影。内向的な女の子をハメるためのドッキリだった。下着になったところで友人たちが姿を現し、種明かしをされてショックを受けた女の子がペンションから飛び出して雪山を彷徨ったあげくに崖から転落死。……これより後は、山の亡霊が出てきたり、死体が変異した結果女の子が自我を無くした化け物になったりと、非現実な展開となり、友人たちは次々と化け物になった女の子に殺されてしまう。物語のラストは、ドッキリに参加しなかった物語の良心とも言える主人公が、化け物になった女の子に結果的に助けられて生き残る、というスプラッタホラーだった。

 自分が生き残るために友人を陥れたり見殺しにしたりと、恐怖心から来る人間の行動は陰惨だった。計算高く保身に走る様を、完全に他人事と切り離せる人間はおそらくいない。そこがこの映画の面白いところなのだろう。しかしドッキリに参加していないメンバーまで殺される羽目になったり、善人の主人公にも不運が連続したりと、報われない場面も多い。
 ホラーは愚かさや不運から話が展開されていくものだし、そこを現実主義者の視点で真面目に議論するなら物語の前提が成立しなくなるとはわかっている。が、確かに勝己の言う通り、自分を陥れるような馬の合わないクラスメイトと旅行をするという点には◎も一切共感はできなかった。


「それは同感。好きな人がいるとついて行っちゃうものかしらね」

「知るかよ。バカの考えることなんざ」

「憧れがバカ?」

「ンなこと言ってねえだろ。現実見えてねえのがバカだってんだよ」

「ふふ、そうよね」


 勝己がヒーロー、もといオールマイトに憧れてヒーローを目指しているのは◎も知っている。 オールマイトをも超えてトップヒーローになると豪語していることも。憧れの感情自体を否定することはないだろう。
 勝己の言うバカとは、気持ちばかりで盲目的になっていたり、憧れに対して努力が伴っていないものを指しているのだ。


 しかし、だったら。


 目標に向かって努力を重ねて、その努力が実って、オールマイトに認められることがあれば勝己も嬉しいのではないだろうか。そうなればそれまでの努力を誇るかもしれない。勝己の性格上、他人から承認されることよりも、自分の理想通りに目標を達成させることの方が重要だろうけれど。
 だが、好きな人に認められたり喜んでもらえたら、どんな人間だろうと嬉しいのではないだろうか。◎はそう思考に耽った。
 ◎にはこれといった憧れの異性がいない。そのせいで馬の合わないメンバーと行動する彼女に共感できなかったが、好きな人に喜んでもらう、というのは憧れの相手でなくとも嬉しいことだと思う。
 父に食事を作った時、それを食べてくれて「美味い」と言われたら。光己の家事を手伝って感謝をされたら。勝己に温度変化の個性を求められて、彼の不快さを和らげることができたら。
 別に見返りを目的にそれらの行動をしているわけではないけれど、好きな人に喜んでもらいたいから何かをするというのは◎にも経験がある。あの映画は、その道理に沿って行動したものの、期待した喜び方をしてもらえなかったという点が違うだけだ。

 好きな人が脱ぐことを求め、それに応えれば喜んでくれると信じたから脱いだのだろう。おそらくハンサムな男の子と内向的な女の子は、それぞれの性格を考えると常日頃から親しくできるほどの接点はない。彼に気に入ってもらえることならばなんでもしたのだろうし、彼女の選択肢はきっと多くなかったのではないだろうか。なるほどそう考えると全く納得できない行動でもない。相手の本質が見えないくらい盲目的に恋をしているのであれば尚のこと、そうなってしまうのだろう。



 ただ、納得はできても、やはり共感できない。相手の本質を見極めないうちに言いなりになってしまうなんて、憧れとはなんて末恐ろしい感情だろうか。出来ることなら異性に対する憧れや恋心なんてものは死ぬまで抱きたくない。否、一度くらいは恋愛も経験してみたいものだが、それならば相手は心から信頼できる人がいい。


 恋愛か、と記憶を振り返る。

 ◎には男の子に夢中になった経験がない。幸福感に満ちたうっとりするような憧れも、恋人に進展しえる親しい男友達もない。完全なる白紙。◎にとって恋愛は全て他人事だ。恋愛話に花を咲かせるクラスメイトの女子たちは至極幸せそうに憧れの男子について話をするものだが、羨ましいと思ったこともなかった。
 ◎に恋愛経験があるとすれば唯一、小学校四年生の時に勝己と交際していると噂されたものだけだ。周りが囃し立てただけの至極白ける経験で、伴った感情といえば周囲に対する嫌悪感のみ。

 それがなかったら自分も年頃に応じて憧れの男子がいたりしたのだろうか。そう思いながらこれまで出会ってきた異性を思い浮かべてみる。告白された経験はあるので、もしかしたらその誰かを好きになったりしただろうか、なんて考える。

 テーブルの向こうをじっと見たまま、そう思考に耽る◎に勝己は目をやった。


「てめぇ何考えてやがる」

「え、別に」


 唐突に現実に戻された声は宛先が曖昧で、勝己は眉間を寄せた。


「まさかてめぇもあの眼鏡女みてぇなことしねえだろうな」


 眼鏡女、と言われて服を脱ぐように誘導された内向的な女の子と紐付けた。
 問いに対してうーんと声を漏らしながら、テーブルの上のグラスを取る。中の氷は溶けきっており、グラスを傾けると表面に浮いた結露が流れてスカートに冷たい染みを作った。縁に口をつけて唇に麦茶を触れさせたまま、改めて先ほどの思考を掘り下げる。勝己の質問は好きな人がいる前提の話だ。しかし◎に好きな人はいない。誰かを仮定して考えるにしても、基本的に他人に無関心である◎には思考を要する質問だった。


(好きな人……強いて言えば勝己だけど……。でも要求とか見返りって何かしら。勝己って性欲薄そうだし、そういうこと言わなそう)


 律儀にそう真面目に考えたが、男女関係や恋愛感情を絡ませると具体的なイメージが湧かず、数秒後にはその思考を放棄した。

 そもそも好きな人として思い浮かべた人物に、家族以外が出ない時点で色恋の縁が皆無である。何しろ初恋すらまだしたことがない。あの映画の内向的な少女がしたように、誰かのために自分の肌を見せることを、◎は一度も考えたことがない。
 思考を諦めた、少し面倒そうな声で投げやりに答えた。回答は全て安直な想像だ。

「さあ? でも好きな人から求められたら、するんじゃないかしら」

「いんのか」

「別にいないけど。いるとすれば勝己かな。男の子の中では勝己が一番好き」

「……はっ。じゃあお前、俺が脱げっつったら脱ぐんかよ」

「うん」

 何も考えずに答えた後、ああ、勝己だったら今更肌を見られても不快ではないかもしれないと思った。

 グラスを置いて、勝己からの返答がないことに気づいて◎は隣を見た。
 目に映った勝己の表情はひどく険しく、眉間を寄せて◎を見ていた。それは信じられない発言を聞いたと言いたげだった。戸惑っているようにも見えた。それを見て◎も、え、とわずかに戸惑う。

 そんなに驚くようなこと言ったっけ、と◎はたった今自分たちが交わした会話を回想した。

 男の子の中では勝己が一番好き。
 じゃあお前、俺が脱げっつったら脱ぐんかよ。
 うん。

 あ。

 はたと気付く。もしかしたらこれは、勝己のことをそういう意味で好きだから、躊躇なく肌を見せられると取られたのかもしれない。
 中学時代、そこそこの人数の女子から気を持たれていた勝己は、恋愛に対して否定的な意識を持っている。鬱陶しいと。そのことを◎は知っている。にも拘らず、彼女たちと同様の感情を◎も勝己に向けていると感じさせてしまったのだろうか。しかし、◎にそんな気は一切ない。

 そんな思考の後、もしかしたら勝己の前で服を脱ぐことを拒否すると思いきやそうではなかった、という点に驚いているのだろうかと推測した。だがそれはないと瞬時に切り捨てる。今更そんなことで驚くとは思えない。他の異性ならともかく、相手が勝己ならば話は別だ。
 互いに体つきに性差は現れているが、それでも◎は今でも勝己と風呂に入ろうと思えば入れるし、同衾だってできる。先日家にゴキブリが出て爆豪家に泊まった時も勝己と同じベッドで寝る気でいた。生まれてずっと一緒にいる仲で、性別という壁で区別するには自分たちは親しすぎる。
 予想に反して勝己は同じベッドに◎が入るのを嫌がったが、それもベッドが狭いとか他人の寝汗がつくとか二人で寝たら暑苦しいとか、そういった理由だろう。間違っても女と同じベッドで寝たら変な気が起きる、なんて理由ではない。これまで◎も異性から恋愛感情を向けられたことはあるが、そういった性の意識を勝己から感じたことはない。


 性差など、自分たちには縁遠いものだ。少なくとも感情面に於いては。だから勝己が「◎が勝己に恋愛感情を抱いている」と思ったならば、それはあまりに大きい誤解だった。

 恋愛感情はないから大丈夫。そう言おうと口を開いた
 が、◎が声を発するより先に勝己が言う方が早かった。





 ◎は一瞬、勝己の言葉の意味がわからなかった。



      *


「まさかてめぇもあの眼鏡女みてぇなことしねえだろうな」

 そう勝己が問うた後、◎はうーんと声を漏らし、その間に麦茶の入ったグラスに口を触れさせた。言葉を選んでいる間、無言を取り持たせるような口の付け方だった。

 大きな玉の結露がグラスを流れ、スカートに染みを作った。それはぴたりと肌に張り付き、その染みの中で肌色がわずかに透けた。

 ただそれだけのことでその場所に触れたくなった。かなり大袈裟な言い方をすれば、勝己はその雫に妬いた。物理法則に逆らわないただの水を尻目にしただけで、胸が激しくざわついた。そして、そんなことに左右されている自分の感情にイラつきもした。

 その苛立ちを収めようと意識したが、次々と余計なことを考えてうまくいかない。ほつれた糸を引きちぎるつもりで力を込めるのに、糸は切れず、ほつれの元である布までがその糸についてくる。
 即答しない◎に、なんでそんなに悩むんだよ、と胸の奥で渦が巻く。

 脱げと言いそうな男でも思い当たるのか、それに応じる可能性があるのか、それとも具体的に思い浮かぶ者が誰もいないから想像できないのか……。最後が正解であることを願うと同時に、真っ先に浮かんだ推測が存在するかもわからない男であることにまた腹が立つ。それは勝己が◎の交友関係を知らないからこそ出てくる推測だ。
 勝己が知らない間に、勝己の知らない男と◎が親密になっている可能性はある。生来からの付き合いであっても、一日だけで区切って考えれば家の外にいる時間の方が圧倒的に長い。それは勝己が知り得ない◎の空白部分だ。そこに何があるのか、◎が話さない限り勝己は知ることができない。

 何かあるたびに◎の知らない部分を突きつけられる。勝己の目の届かない◎の時間。知らないことがあるとわかっているのに、その中身を知らない。気持ち悪い。払拭したいのに、証明されるまでその気持ち悪さは消えない。

 だから問答の末、◎に好きな人がいないと聞き出せたことは勝己にとって喜ばしいことだった。
 だがその直後の発言に、勝己は息が止まった。

「いるとすれば勝己かな。男の子の中では勝己が一番好き」



 ―――…それに感じたのは安堵。◎の中で一番なのは自分なのだと、不変の認識が覆されなかったこと。
 それと同時に湧いたのは、◎から自分に向く認識が不変であることを知った、酷い屈辱だった。



「……はっ。じゃあお前、俺が脱げっつったら脱ぐんかよ」

「うん」

 打ち負かされている気持ちを隠しながら発した嘲笑は虚勢だった。それこそ言い淀めばいいと思ったのに、今度の返事は即答だった。

 それはつまり一考の必要もなく、◎が勝己を意識していないという意味だ。

 ガツンと胸に鉛が落ちたようなショックを受けた。それを表に出すまいと、眉間に力を入れて無理やり表情を作った。どう見えていたのかは知らない。だが勝己の顔を見た◎の目がわずかに見張ったのを見て、ああ、こいつは俺がどんな気でいるのか全然知らねえんだなと確信して、腹の底が怒りで熱くなった。

 ……ナメやがって。馬鹿にしやがって。

 怒鳴りつけたい気持ちを必死に押さえ、勝己は口を開いた。思い知らせてやりたかった。仕返しにも似た気持ちだった。







「脱げよ。じゃあ」








 ◎は今度こそ驚いて、その言葉の意味をしばらく考えたようだった。何度か瞬きをしてその驚きを落ち着けさせると、数秒の思考の後、答えた。

「ああ、うん。いいよ」

 それはひどく軽く、焦りも動揺も何もない、聞き慣れたいつも通りの◎の声。
 その声に危機感など微塵もなかった。




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